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連載故郷の場所(その4) あなたが還る場所

 あの地震と津波と原発事故の発生からすでに何年も過ぎてしまった。
 私は多くの人々に支えられ、あれからずっと、みちのくを尋ねている。それは今も変わらない。亡くなられた方々の墓、被災した地域や隣接地域の仮設住宅などで暮らす人々の顔。訪れる者の絶えた被災地の神社。くず折れた鳥居。再建された神社。笑顔の人々。それらの記憶の刻印は、もはや、私の(ちっぽけな)記憶の容量を超えてしまった。
 震災を通過点として、よりいっそうの氏子教化に勤める神職の方々もいる。原発周辺地域の、いまだどうにもならない現実。それまで「騙し騙し」にやってきたものの、震災という非情な暴力によって、ついに限界集落となってしまったところ。進む過疎。
 絶壁のような巨大堤防と、申し訳程度の嵩上げにいったい何の意味があるのか納得できない人々。その影で、由緒や神格など一向に顧みられず、信仰上の理由でもなく、行政の命令によって移転を余儀なくされる神社の数々。
 だが、これらはいわゆる「震災のこと」である。
 しかし、みちのくで耳にする人々の苦悩は、それは必ずしも「震災のこと」だけとは限らない。
 子供のいじめ、「故郷への帰還」がかなわず、仮設住宅で亡くなった高齢者、職業の不安定さ、帰るに帰れない現実。抗不安薬や睡眠薬が増えたこと、◎◎さんの悪口…。言わずもがなであるが、こういったことはもしかしたら震災が起きなければ、そもそも惹起(じゃっき)しなかったことかも知れない。しかし、震災が起きなくても、人は亡くなる。いまや日本中で年間127万人近い方が亡くなる(厚労省26年推計)。だから、この4年での被災地における「自然死」の数も相当なものになっているだろう。そして、その数だけ、死別の悲嘆に心を痛めている遺族や関係者がいる、ということになる。
 そうして思うことは、もはや「震災復興支援」という用語は、間違ってはいないかもしれないが、正確さに欠けるのではないか、ということである。
 原発災害は、もちろんいまだに収束していないので、「震災が終わった」などという気は毛頭ない。しかし、震災を契機に苦しみを背負わされた人々の苦しみと悲しみは、もはや「震災」だけではないのだ。
 遠いところから「震災復興支援」に向かう方々は、いまや稀有な存在となっているらしい。ボランティアの数は、極端に減少した。これも時間の経過のなせる業なのだろう。
 稀有な存在の方々に文句をつける気はないのだが、少なくとも、現時点で「復興支援」を掲げる方々は、震災の渦に巻き込まれた人たちの、震災からの年月にきっと深く、思いを馳せねばならない。支援者と要支援者という区分けもどうかと思うが、仮にそのように両者を区分けしたときに、どうしてもそこに温度差を感じてしまうのはうがった見方であろうか。
 では、被災された人たちの哀しみと喜び、あるいは人生を絶対的な無条件で包み込んでくれる存在は、どこに在るのだろうか。
 そのひとつが、ふるさとの氏神様である。
 そして、氏神様に仕え、神様と氏子をつなぐ神職の方々であろう。
 集団移転や強制的な立ち入り禁止措置などで分断されたままの地域に残された最後の希望が、ふるさとの神社ではないかと、私は考える。
 人はふるさとを去ってゆく。だが、ふるさとの神様は時間を超え、そこにおわす。ふるさとの家屋は流され、傾き、雑草に覆われ、山が崩され、海と陸がコンクリートで分断され、ふるさとの風景が変わっても、ましてや世代が変わっても、人は、そこに還る。
ライター 太田宏人
(平成27年5月1日掲載)


福島県南相馬市の日鷲神社(西山典友宮司)は福島第一原子力発電所から北へ15キロの距離にあり、2年以上、立ち入りが制限されていた。平成25年8月11日、西山宮司らの尽力により、2年ぶりとなる「夏祭り」が復活した。多くの子供たちが参加していたのが印象的だった。写真は、キャンドルライトのケースに書かれた「将来の夢」


盆踊りが終わって、櫓を解体する氏子たち。ふるさとの記憶は、ふるさとの音楽や踊りとともに、人々の心と身体に刻まれる


日鷲神社の参道はキャンドルによってライトアップされた

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