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令和7年11月、日本で初めてとなる聴覚障害者による国際スポーツ大会「第25回夏季デフリンピック競技大会 東京2025」が開催された。
また令和3年8~9月、第16回夏季パラリンピックが東京で開催された。
いずれの大会においても、両陛下はじめ皇族方が観戦に足を運ばれ、
テレビでも各競技が中継されたため、障害者スポーツが一気に身近になった。
これら障害者スポーツの日本での発展に尽力されたのが、上皇・上皇后両陛下である。
昭和40年に「全国身体障害者スポーツ大会」が始まったのも
上皇陛下のお言葉がきっかけだった。
皇室が障害者スポーツ興隆に果たされた功績を紹介する。
(91号より)
障害者スポーツの始まり
現在、代表的な障害者スポーツ大会として知られるのはパラリンピックだろう。その原点は、第二次世界大戦中のイギリスにある。ロンドン近郊のストーク・マンデビル病院で、脊髄を損傷した兵士の治療にスポーツが取り入れられ、1948年(昭和23)に車いすアーチェリー競技会が開催された。この大会は「国際ストーク・マンデビル競技大会」として参加国や種目を拡大させながら次第に発展。1960年(昭和35)、ローマで第17回オリンピックが開催された時にイギリスを離れ、オリンピックに続けて開催された。これがパラリンピックの第1回である。
次のオリンピック開催地は東京だったが、当時の日本は障害者スポーツへの社会的関心も理解も低かった。そのような状況下でパラリンピック開催に尽力されたのが、当時30代に入られたばかりの上皇・上皇后両陛下だった。

開催実現に向けてご尽力
関係者からパラリンピック開催の具体的な議論がなかなか進まないことをお聞きになった上皇后陛下は、まず上皇陛下にご相談。その後、お二方は宮内庁関係者と相談しつつ、お立場上許される範囲でお知り合いのスポーツ関係者や福祉関係者に話をされた。
こうしてようやく昭和37年(1962)春、国際身体障害者スポーツ大会準備委員会が設立され、同年7月の第11回国際ストーク・マンデビル競技大会に2名の卓球選手が派遣された。
翌38年(1963)4月、上皇陛下が大会名誉総裁にご就任。昭和39年(1964)4月には上皇后陛下ご臨席のもと、パラリンピック通訳奉仕団の結成式が開かれ、英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、スペイン語を話せる156人が奉仕員となった。
「パラリンピック」は東京生まれ
東京パラリンピックは2部構成で行われた。昭和39年(1964)11月8~12日までの第1部は、車いすを使用する脊髄損傷者のみが参加する第13回国際ストーク・マンデビル競技大会として行われ、下半身麻痺を表す「パラプレジア」の「パラ」とオリンピックを組み合わせた「パラリンピック」と呼ばれた。実はパラリンピックという言葉は、東京大会の愛称として生まれたのである。
第1部には21か国から378名の選手が参加した。日本からは53名の選手と31名の役員が参加した。上皇陛下は8日の開会式でおことばを述べ、その後も上皇后陛下とご一緒に連日のように会場に足を運ばれた。香淳皇后をはじめ皇族方も足しげく会場に通われた。
13~14日の第2部は、脊髄損傷者に加えて四肢切断、視覚障害なども含む広範囲の障害者のための国内大会として開催された。まだ復帰前の沖縄の選手や、西ドイツの選手も参加した。
その後、パラリンピックの出場資格は徐々に広がっていった。なお1976年(昭和51)の第12回冬季オリンピック(オーストリア)から始まった冬季パラリンピックでは、最初からさまざまな障害を持つ選手が参加できた。
1985年(昭和60)、IOC(国際オリンピック委員会)がオリンピック年に開催する国際身体障害者スポーツ大会を「パラリンピック」と名乗ることに同意。1989年(平成元)にはIPC(国際パラリンピック委員会」が設立された。現在、「パラ」はギリシャ語の「Para」(平行)と解釈されており、「障害者と共生する」という理念と、オリンピックと同等の大会であるとの意味が込められている。
全国身体障害者スポーツ大会の誕生
昭和39年(1964)の東京パラリンピック終了後、上皇陛下が関係者を招いての懇談会で、「このような大会を国内でも毎年行ってもらいたい」と希望された。パラリンピックに出場した日本の選手が病院や施設にいる人が多かったのに比べ、外国の選手の多くが社会人として自立していたことをお知りになってのご希望だった。
このお言葉が契機となり、昭和40年(1965)、日本身体障害者スポーツ競技会(現・日本障がい者スポーツ協会)が発足し、同年から全国身体障害者スポーツ大会が始まった。
同大会は国民体育大会(現・国民スポーツ大会)の後に同じ会場で開催されることになり、上皇・上皇后両陛下はやむを得ない場合を除いて第1回からこの大会の開会式に欠かさず出席されただけではなく、次第に増えていく協議のほぼすべてをご観戦。選手と役員との懇親会にも参加し、交流された(平成の御世は当時の皇太子・同妃両殿下、令和以降は秋篠宮皇嗣・同妃両殿下がご出席)。
その後、全国身体障害者スポーツ大会は平成13年(2001)に全国知的障害者スポーツ大会と統合され、全国障害者スポーツ大会となった。
車椅子アーチェリーを国体種目に
上皇・上皇后両陛下は車椅子アーチェリーの練習場所確保にも尽力された。競技の性質上、車椅子アーチェリーはアーチェリーと同じ場所で練習できるという利点がありながら、国体にアーチェリーの種目がないために練習場所に恵まれなかった。そこでアーチェリーを国体種目に加えるように要請することによって車椅子アーチェリーの練習場所を確保したのである。ちなみにアーチェリーが昭和55年(1980)から新競技として国体に加わったときには、4人の身体障害者が出場している。
陛下は視覚障害者の伴走を
上皇・上皇后両陛下の思いを受け継ぎ、天皇陛下も障害者スポーツを応援してこられた。皇太子殿下時代には毎年の全国障害者スポーツ大会にご臨席。平成10年(1998)の長野パラリンピックでは名誉総裁を務められた。
ジョギングがお好きなことから、平成30年(2018)6月にはリオデジャネイロ・パラリンピック女子マラソン(視覚障害)の銀メダリスト、道下美里選手の伴走を務められた。前年秋の園遊会での道下選手の「機会があれば一緒に走りたいです」の言葉がきっかけだった。
陛下は「伴走」と書かれたビブス(ゼッケン)を身に着け、ご自身で用意された蛍光の黄色の伴走用ロープを右手で握り、そのロープを左手でつかむ道下選手に声を掛けながら赤坂御用地の約1.5キロの道を走られた。
陛下は事前に伴走者の声のかけ方や道下選手の走りの特徴を動画で調べたうえ、走る直前には専用のゴーグルをかけて御用地内を歩き、視覚障害者の感覚も体験して臨まれた。

宮家の方々もさまざまに応援
皇族方も多大な支援を続けてこられた。
学生時代から手話を勉強し、聴覚障害者関連のご公務に精力的に取り組まれている秋篠宮妃殿下は、ご一家でデフリピックの日本選手団と交流を続けておられる。ちなみにデフリンピックの歴史はパラリンピックより古く、夏季大会は1924年(大正13)、冬季大会は1949(昭和24)に始まっている。
秋篠宮ご一家は、令和7年の東京でのデフリンピックにも積極的にかかわられた。開会式ではご一家で出席し、殿下がおことばを手話を交えてお話しに。前日に行われた日本選手団結団式には佳子内親王殿下が出席し、手話による挨拶で選手団を激励された。またご一家は競技会場に何度も観戦に訪れられた。
平成24年に薨去した寬仁親王は障害者スキーの普及と技術指導に熱意を傾けられた。その熱意は、現在、日本プロスキー教師協会総裁をお務めの彬子女王殿下に引き継がれている。
その他にも車いすテニス、車いす駅伝、知的障害者のための競技会であるスペシャルオリンピックスなど、皇族方が応援する障害者スポーツは多い。平成17年にスペシャルオリンピックスの第8回冬季世界大会が長野県で開催された際には、天皇陛下(当時は皇太子殿下)が開会式でおことばを述べられたほか、多くの皇族方が会場に足を運ばれた。
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