読みもの

お能の扉、開けといたよ

presented by 月イチ能楽講座 第4回
令和8年2月6日
シテ方・⼤槻裕⼀さん
「お能にしか興味のなかった私のこれまで」#1 幼少期・前編


 中世にさかのぼる伝統芸能である「お能」は、知れば知るほど面白く、人をひきつけて離さない魅力があります。でも、古い時代の言葉づかいや、ゆっくりした抽象的な動きなど、予備知識なしでは難しく感じてしまうことも。
 そんなお能の世界の扉をぐぐっと開いてくれるのが「月イチ能楽講座」です。関西の若手能楽師のホープたちによる、軽妙なトークに迫力ある実演を交えての解説は「わかりやすい!」「楽しい!」と評判。そのメンバーによる本連載。今回からは「幼少期からずっと、能が大好き」というシテ方の大槻裕一さんに、これまでの歩みを綴っていただきます。

月イチ能楽講座
東京・大阪・京都で毎月開催、毎回お能の1つの曲(演目)を題材に、能楽師シテ方の大槻裕一(おおつき・ゆういち/写真右)、小鼓方の成田奏(なりた・そう/写真左)、大鼓方の河村凜太郎(かわむら・りんたろう/写真中央)が、若いエネルギーとみなぎる情熱、関西ノリの話芸とキレのある技で、たっぷり解説。オモシロ企画満載のインスタグラムも必見。
⚫︎講座のお申込・開催スケジュール・詳細は↓
https://www.instagram.com/noh_once_a_month/



 はじめまして。能楽師観世流シテ⽅の⼤槻裕⼀と申します。まずは、私の肩書について説明しておきましょう。シテ方というのは、能楽師のなかでも主役を担当する役者のこと。シテ方には現在5つの流儀があり、私はそのうちの「観世流」という流儀に属しています。

 私は能楽師として⼤阪の⼤槻能楽堂を拠点に活動しております。同世代の⼩⿎(こつづみ)⽅の成⽥奏さん、⼤⿎(おおつづみ)⽅の河村凜太郎さんと主宰する「⽉イチ能楽講座」は、当初は“能楽を沢⼭の⼈に発信!”をコンセプトに⼤⾵呂敷を広げていたものの、⾃分たちもお客さんと⼀緒に知らなかったことを学んだり、そこでしか話せないことをつらつらと話したり、若さゆえ時に舞台への想いが熱く暴⾛することもあったりと、私たちにとって学びある⼤切な場所となりました。

「⽉イチ能楽講座」のお客様はリピーター率が⾼く、こんな未熟な私たちをとても温かく⾒守ってくださいます。こんな舞台にしたいと頭で思い描くことを実際に⾔語化することの⼤事さ、難しさを噛み締める⽇々ですが、ご興味のある⽅は是⾮お気軽に遊びにいらしてください。

 この連載で前回まで執筆していた成⽥奏さんは、初めから能楽の興味があった訳ではないと書かれていました(→https://www.nihonbunka.or.jp/column/yomimono/detail/100769)が、私はその真逆で、お能にしか興味のない幼少期を過ごしてきました。そんな私は、どうやら能楽師仲間のなかでも珍しいタイプのようです。

父と大槻能楽堂

 私の実の父・赤松禎友(よしとも)は能楽師で、物心ついた頃から能は⽇常に密接したものでした。ただし、赤松家は代々続く能楽師の家というわけではありません。私の祖父は兵庫県高砂市の出身で、観世流シテ方の大槻秀夫先生の素人弟子でした。能楽師はプロ(玄人)の能楽師を育てるほか、趣味として能楽を楽しむお素人のお弟子さんにも教えていて、祖父もそのひとりだったわけです。そんな関係から、私の父は中学校を卒業後、高校へは進学せずに、大阪市の秀夫先生のご自宅に住み込みで修行する内弟子(うちでし)となり、その後独立してプロの能楽師になったのです。

 ちょっと話が脇道にそれますが、父の内弟子修行は11年間という長いもので、それは大槻能楽堂の建て替え工事期間を挟んでいたことも影響していたようです。大阪能楽界の拠点である大槻能楽堂は、昭和10年に大槻十三(じゅうぞう)先生によって創立され、次代の秀夫先生のもと、昭和58年に現在の姿に建て替えられました。父は秀夫先生の最後の弟子で、秀夫先生が亡くなられたのは、父と母の結婚式の翌日のことだったそう。その後の大槻能楽堂は、秀夫先生のご子息で、現在の私の芸事(げいごと)の上での父である文藏(ぶんぞう)先生に引き継がれ、現在に至っています。

 さて、私の話に戻りましょう。能楽師の子供がだいたいそうであるように、私も姉も、小さな頃から父のもとで稽古をしていました。自宅に設えた稽古場で、晩御飯の前後にお稽古することが多かったでしょうか。子どものころの記憶はおぼろげですが、お稽古で怒られたことはほとんどありません。能楽師の親が子に稽古をつける場合、家庭と稽古場では接し方が違うという話をよく聞きます。でも、私の父はどちらかといえば寡黙なタイプで、家庭と稽古場で態度を変えることはありませんでした。それに、自分にとってはお稽古というよりも、遊びの延長のような感覚でした。なぜなら、自分にとって遊びが能だったから。


「能楽師ごっこ」に夢中

 他の子がお店やさんごっこや教師ごっこを楽しむように、私は幼稚園から帰ったら「能楽師ごっこ」をして遊んでいました。そして休⽇はというと、子方(こかた=子どもが演じる役)として公演に出るため⼤槻能楽堂に⾏くというのが、お決まりの過ごし⽅。能楽ライフがメイン、サブでちょっと幼稚園に⾏っとこうかなという感覚で、幼少期から能楽が人生の主軸でした。

 ⼦どもながらにこだわっていたのは、「能ごっこ」ではなく「能楽師ごっこ」。2歳から⼦⽅として舞台に⽴たせて頂いていた私は「⼤⼈の能楽師」に憧れていたのです。能楽師の楽屋⼊りはスーツ姿の⽅が多いので、まずはスーツ(冠婚葬祭⽤の⼦どもサイズ)に着替え、⽗の使い古されたカバンを拝借し、そこに厚紙や段ボールで作ったなんちゃって装束(しょうぞく)と能⾯を⼊れ、能楽堂に出勤するところから、ごっこ遊びが始まります。家からいったん出て、再び家に⼊るだけの2秒の出勤です。⽇頃から能楽堂の楽屋で⾒ている景⾊――ご挨拶や袴(はかま)の畳み⽅、シテ⽅の装束の準備、お囃⼦⽅のお道具の準備など、⾃分には眩しく輝いてみえた⼀連の動きを、家で⾃由に好きなだけ夢中になって真似をしていました。

 ごっこ遊びの公演を迎えるために、番組(プログラム)を作成するのも楽しみのひとつ。勝⼿気ままに配役を考えて、「〇周年記念公演」などスペシャルな公演を企画したりもしていました。ごっこ公演がひととおり終わると、再びスーツに着替え、次は宴会です。当時の私は、舞台上での姿はもちろん、舞台に⽴っていないときの能楽師の姿にも憧れていました。その頃、⼤阪の公演後には出演者みなさんで宴会に⾏かれることが多く、⼦どもながらに「楽しそうだな、僕も⾏きたいな」と思っていたのです。なので、ごっこ遊びは「宴会」という名の⼣⾷で終わるというのがお決まりの流れでした。宴会ごっこのため、⺟がいつも居酒屋さんのようなメニューを手づくりで書いてくれていました。

(次回に続きます)

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