読みもの
シテ方・⼤槻裕⼀さん「お能にしか興味のなかった私のこれまで」#3 青春期編
中世にさかのぼる伝統芸能である「お能」は、知れば知るほど面白く、人をひきつけて離さない魅力があります。でも、古い時代の言葉づかいや、ゆっくりした抽象的な動きなど、予備知識なしでは難しく感じてしまうことも。
そんなお能の世界の扉をぐぐっと開いてくれるのが「月イチ能楽講座」です。関西の若手能楽師のホープたちによる、軽妙なトークに迫力ある実演を交えての解説は「わかりやすい!」「楽しい!」と評判。そのメンバーによる本連載。今回からは「幼少期からずっと、能が大好き」というシテ方の大槻裕一さんに、これまでの歩みを綴っていただいています。

月イチ能楽講座
東京・大阪・京都で毎月開催、毎回お能の1つの曲(演目)を題材に、能楽師シテ方の大槻裕一(おおつき・ゆういち/写真右)、小鼓方の成田奏(なりた・そう/写真左)、大鼓方の河村凜太郎(かわむら・りんたろう/写真中央)が、若いエネルギーとみなぎる情熱、関西ノリの話芸とキレのある技で、たっぷり解説。オモシロ企画満載のインスタグラムも必見。
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前回では、お能に没頭する私の幼少期について記しましたが、今回は子方(こかた=子役)を卒業した後の中学生以降のことを振り返ってみましょう。
声変わりで思うように声が出なかった中学生の頃は、シテ(主役)に付き添う「ツレ」役など、セリフのあまりない役を父が選んでくれて、舞台に出ていました。そのほか、この時期には楽屋の見習いもしていました。前回で書いたように、子どもの頃から楽屋の様子を興味津々で見ていた私ですが、実際に装束や道具に触れていたわけではありません。装束の着け方や、楽屋でのしきたりなどは、中学生だった3年間で学びました。

憧れの舞台を観に一人で東京へ
中学⽣になると、東京へ一人で能楽を観に⾏くようにもなりました。はじめてのおつかいならぬ、はじめての⼀⼈旅! 冒険期突⼊です。今考えると、両親もよく⼀⼈で⾏かせてくれたなと思いますが……。東京で催されている公演は、自分の目には都会的で眩しく格好良く、実際に⽣で拝⾒したい思いが溢れ、休⽇になると新幹線を往復する⽇々。国立能楽堂や、当時は松濤(しょうとう)にあった観世能楽堂(現在は銀座に移転)などでの公演を観に通っていました。

東京と関西では、お能の舞台の雰囲気が違います。自分が育った関西に比べると、東京にはさまざまな流儀の能楽師がいますし、丁々発止(ちょうちょうはっし)というか、一種の緊張感が感じられます。東京の舞台は「テレビで見ていたすごい能楽師たちが出ている、自分には手の届かない場所」というイメージ。中学生の自分には刺激というにはまだ早い、キラキラした夢の世界でした。
この時期に出会った能楽師の先輩⽅との出会いは⼤きく、私は勝⼿ながら兄貴の弟分のつもりで、たくさんのことを教えてくださる先輩⽅の後ろを、ヒヨコのようにぴよぴよついて回っていました。最初の兄貴になったある囃子(はやし)方の先輩は、とても眩しい存在でした。関西出身で東京に住まいを移していたその先輩が、当時20代半ばで東京と関西の舞台を往復して活躍しているのを見て、「若いのにすごいところにいるなあ。自分もいつかそうなりたいなあ」と憧れていました。それまでの「能楽師になりたい」という漠然とした夢から、「こんな能楽師になりたい」というはっきりとした⾊がついた時期でした。今振り変えれば、ただただ「能が好き」という濁りのない純粋な気持ち⼀筋で過ごしていた、宝物の時間です。
偉大な師の「芸養子」という転機
そんなとき、⼈⽣の転機が訪れました。中学3年生の夏、実⽗の師匠である⼤槻⽂藏(ぶんぞう)先⽣の芸養⼦にならないか、とのお話をいただいたのです。芸養子とは、芸の継承を目的として、師匠の養子になること。私は呑気なもので、「⽂藏先⽣から習える曲が増える!」くらいの気持ちで、事の重⼤さに気づいていませんでした。⼀⽅、実の⽗は⼤慌てで、かなり混乱していたように思います。あれよあれよといううちに、もとの名である「赤松裕一」から、芸事(げいごと)の上では「⼤槻裕⼀」として⽣きることになりました。自分にとって、⽂藏先⽣は近くて遠い存在。前回で書いたように、私は幼少期から子方として舞台をご一緒させていただいてはいましたが、能楽界を代表するシテ方で、今や人間国宝でもある文藏先生は、20歳の頃には200曲以上もある謡曲(ようきょく=能楽の詞章[ししょう]で、演劇の脚本に当たる)がすべて頭に⼊っていたなどの逸話も多い、まるで歴史上の⼈物のような方です。その先⽣が、ある⽇から「⽗」になるのです。不思議な気持ちでした。

2013年(平成25)に15歳で芸養子になった私は、⽂藏先⽣の稽古を本格的に受けるようになりました。先生は技術⾯だけでなく、「この曲の作者はこういう気持ちで書いたのだからこういう⾵に謡いなさい」などと、どの⽂献にも書いていないことを教えてくださいます。おそらく先⽣も師匠⽅から教わったことを、こうして教えてくださっているわけで、稽古を通して「芸の継承」を実感することになりました。また、⽂藏先⽣がシテの舞台で、シテに付き従う「ツレ」をつとめさせていただく機会も格段に増えました。
メンタルまで鍛えられた謡(うたい)の稽古
ところで、舞台でシテをつとめるためには、お囃子についても理解していなければなりません。ですから、シテ方の能楽師は、ある程度はお囃子のお稽古もする必要があります。私も幼少期から囃子方の稽古をしていて、幼稚園の年長から太鼓を三島元太郎(げんたろう)先生に、小学校2年生から笛を故・藤田六郎兵衛(ろくろびょうえ)先生に、小学校4年生から大鼓(おおつづみ)を故・山本孝(たかし)先生にお稽古していただいていました。じつは、幼少期には狂言のお稽古を野村又三郎先生につけていただき、能の子方と同時に狂言の子方もやっていた時期もあります。小鼓(こつづみ)の稽古は一番遅く、高校1年生から数年間、大蔵源次郎先生に見ていただきました。

芸養子になってから、⼤⿎⽅の故・⻲井忠雄先⽣にお稽古をつけていただくことになったことも、⼈⽣の⼤きな出来事でした。忠雄先生といえば、私とっては雲の上の存在。なにを隠そう、子方時代の私が楽屋でサインをいただいた(前回を参照)、憧れの先生の一人です。
忠雄先⽣には、⼤⿎のほかに謡(うたい)の稽古を⾒ていただいていたのですが、これがじつに厳しいものでした。なにしろ、40 分から 1 時間くらいある曲を最初から最後まで暗記して謡い、間違えたら最初からやり直し、という稽古を繰り返すのです。⼀字⼀句間違わずに1曲を謡いきるまで、 4~5 時間ぶっとおしで稽古をするときもありました。あと⼀歩というところで間違えても、初めからやり直し。⼀切の妥協がありませんでした。「⾃分はなんて情けないんだろう」と⼼が折れそうな⽇もありましたが、お稽古を重ねてメンタルを鍛えてもらったように思います。忠雄先⽣にお稽古してもらったことは、⼀⽣の⾃信に繋がりました。
⼦どもの頃から⼤好きだった能ですが、ただ⼤好きなだけでは超えられない壁があると知った時期でもありました。これからもたくさん挑戦して、時に失敗して躓いても、また這い上がって、貪欲(どんよく)に学んできたいと思っています。
#2の記事は↓
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成⽥奏さんの記事は↓
https://www.nihonbunka.or.jp/column/yomimono/detail/100769