読みもの

和の響き――日本の音色に魅せられて

第2回 篳篥―その2
令和7年10月15日
2 楽器を作るようになった意外ないきさつとは?

最初に吹いたのは「越天楽」(えてんらく)
 昭和54年、こうして23歳の新屋さんは再び三重を離れ東京へ向かいました。ご家族も喜んで送り出してくれたそうです。当時、雅楽道友会は創設12年を迎えたころで、創設者の薗廣教(そのひろのり)先生もご健在でした。
「東京へは実家にあった笙を持っていきました。最初は笛を吹いてみたのですが、鳴らなかったんです。その点、笙は指を押さえて息を入れれば音だけは出ますから」
 新屋さんは柔和な笑顔で、とつとつと話してくれます。
「ただ薗先生は篳篥奏者でね。『笙は後でもできるから、まずは主旋になる篳篥をやった方がいい』とおっしゃったので、篳篥を吹くことになりました。今にして思えばどの楽器もうまく演奏するのは難しいんだけどね(笑)。僕はもう45年も篳篥を吹いているけど、いまだに難しい」
 
 東京に来てからは、内弟子ということで薗先生が目黒にアパートを借りてくれたそうです。アパートから先生の家に通い、篳篥を教わりながら、食事を取り、掃除をする生活を4年間続けました。その後はご自分でアパートを借りて先生宅に通う毎日でした。
「最初の半年間は楽器を持たないで歌うだけでしたよ。デビューするまで1年くらいかかったかな。結婚式で『越天楽』を吹きました」
『越天楽』はおそらく雅楽のなかで最も有名な曲目でしょう。実は、「酒は飲め飲め飲むならば……」の歌詞で知られる『黒田節』も、『越天楽』の旋律をもとにした民謡なんですよ。

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