読みもの

お能の扉、開けといたよ

presented by 月イチ能楽講座 第3回
令和8年1月23日
小鼓方・成田奏さん
「お能に興味のなかった僕が、能楽師になるまで」#3


 中世にさかのぼる伝統芸能である「お能」は、知れば知るほど面白く、人をひきつけて離さない魅力があります。でも、古い時代の言葉づかいや、ゆっくりした抽象的な動きなど、予備知識なしでは難しく感じてしまうことも。
 そんなお能の世界の扉をぐぐっと開いてくれるのが「月イチ能楽講座」です。関西の若手能楽師のホープたちによる、軽妙なトークに迫力ある実演を交えての解説は「わかりやすい!」「楽しい!」と評判。そのメンバーによる本連載では、成田奏さんに能楽師になるまでの道のりを綴っていただいています。


月イチ能楽講座
東京・大阪・京都で毎月開催、毎回お能の1つの曲(演目)を題材に、能楽師シテ方の大槻裕一(おおつき・ゆういち/写真右)、小鼓方の成田奏(なりた・そう/写真左)、大鼓方の河村凜太郎(かわむら・りんたろう/写真中央)が、若いエネルギーとみなぎる情熱、関西ノリの話芸とキレのある技で、たっぷり解説。オモシロ企画満載のインスタグラムも必見。
⚫︎講座のお申込・開催スケジュール・詳細は↓
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 僕が通った小学校は、進学先が二手に分かれるタイプの学区で、約200名の小学生のうち、20名ほどしか行かない方の中学校に通うこととなった。そんなわけで、中学に入学してみると大半が知らない生徒だったが、わりと社交的な僕はすぐに友達ができた。サッカー部に入ったことで、先輩・後輩の関係もできた。


思春期~習い事から逃げ出す~

 然れども、なかなか反抗期。刺激に満ちあふれた新生活において、自分を縛り付ける習い事がイヤで仕方なかった。中学に上がるタイミングでピアノ・エレクトーンはやめていた。先生に「やめたい」と言うのが怖くて仕方なかったのだが、意外にもあっさりやめられたのは、僕がやめるのを悲しんでいたにもかかわらず、母がやめる手助けをしてくれたおかげだ。

 次に塾。自らの意思で通った塾だが、勉強以外に興味が向いた僕。やめることを伝えるのはやはり怖かったが、電話であっさりやめられた。なるほど自分が思うほど、習い事をやめることは一大事ではないのかもしれない。

 最後に小鼓の稽古。中学から「京都能楽養成会」という若手能楽師の研修機関に入り、当時講師をされておられた故・曽和博朗師(曽和正博師の父)に玄人になるための指導を受け始めた矢先だったが、やめたくてたまらなくなった。母には「やめたい」と言っていたが、今思うと母に甘えていたのだと思う。そのたびに「がんばりや」となだめられ、はぐらかされていた。そこで、ついに父親に相談というか、「やめたい」と告げた。反対はされなかった。その夜、父の書斎に呼ばれ「曽和先生に自分で話しなさい」と言われた僕は、受話器を受け取った。受話器から師匠の声がして、なんともいえない空気を察知した僕は、「やめたいです」と、ただそれだけを伝えた。すると、師匠から理由も訊かれることもなく、このときもまた意外にもあっさりやめられた。

 
 こうして、泣きたくなるほどイヤだった習い事は、わずか数か月の間にすべてやめた。僕は解き放たれたついでに、厳しい顧問がイヤになり、サッカー部もやめた。

 今考えたら「人生、損してんで」と言ってやりたくなるような、何の教養も得ようとしない学生時代が始まったが、ほとんどが本題と無関係なので、ざっくり割愛する。

 中学2年生からの空白の5年間に差した一筋の光が、高校時代の部活動である「空手」だった。空手は中学校のとき、友達に誘われて近所の道場で始めた。じつは、僕が入学した高校は、空手部の強い高校に行きたくて選んだ工業高校だった。あらゆる事から逃げ出した僕は、空手で初めて自分と向き合う事を覚えた気がする。最もきつかったのは夏休みの「鬼練」だ。空手だから「稽古」のはずなのに練習の「練」なのは、きっと部員の誰かが勝手につけたネーミングだろう。基礎的なトレーニングを延々と行う稽古で、ペアをつくり背負い合ったり、体育館を四股立ちで何往復もしたり。もはや筋力は尽きてからの精神的トレーニングだった。


再び能楽の道へ

 5年ほど過ぎたころ、部活を引退し高校卒業を控えた僕は、進路について家族に相談した。工業高校の友達とは「将来は〇〇重工に入って……」などと口では言っていたが、本心からじゃなかった。ねじの作り方やプログラミングは教わったが、普通の勉強はまったくしていないので、大学進学は考えられなかった。はっきり言って、将来について真剣に考えたことがなかったのだ。

 すると、父親からまさかの提案が。それは「楽屋働きっていう仕事があるで」というもの。「楽屋働き」とは、修行中の弟子が師匠の荷物持ちとして楽屋へ入り、楽屋のお茶汲みをしたり、先生や先輩の着物を畳んだりする、いわゆるお手伝いである。あれほど自分を縛り付ける能楽がイヤだったのに、自分なりに空手をやりきってしたいことがなくなった僕にとって、なぜか少し魅力的に感じた。なにも考えていなかった自分だが、父の存在や子供のころの経験から、どういう世界なのかはなんとなく想像できた。思えば、父にそそのかされたような気がする。「楽しいよ、この仕事は」などと言って、うまいこと僕をのせてくれた。おそらく自分の「恵まれた環境」に初めて気づいた瞬間だった。

「やってみよかな」と思っていると瞬く間に話が進み、曽和博朗師のご自邸へとご挨拶にお伺いすることとなる。今思うと緊張も不安もなかった自分が不思議だが、実際のところ緊張も不安もなかった。師は活動復帰を受け入れてくださり、「達志(父)が面倒をみなさい」とのお言葉を受け、親子共々平伏したのだった。


 こうして父の拠点である大阪での修行が始まり、僕の能楽師人生が始まった。

 その後の話は、またの機会に。


#2の記事は↓
https://www.nihonbunka.or.jp/column/yomimono/detail/100770
#1の記事は↓
https://www.nihonbunka.or.jp/column/yomimono/detail/100769

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