読みもの

笙の音に導かれて―宮内庁楽部とともに

元宮内庁楽部首席楽長・岩波滋さんの軌跡 2
令和8年11月2日


父の亡骸をリヤカーに載せて
 一方、父の兄弟は男ばかりでした。あまり詳しくは知らないのですが、鶴川の家は勤め人だったようです。分けてもらう田畑もないので、学校の先生になったり、軍人になって近衞(このえ)連隊に入ったりと、各自いろいろな道に進みました。父は明治42年生まれの三男で、逓信省、今の郵便局に勤めていました。



 父の兄弟は、父も含め、みな、戦争に行きました。僕が生まれた時も、父は満州に出征中だったので、僕は松本の母の生家で生まれました。その後、父が帰ってきて、出生前に働いていた軽井沢の郵便局に復職。僕も軽井沢で育ちました。
 父は出征と帰国を繰り返しました。出征して向こうで結核になって帰国して、直ったらまた出征してね。最後は結核が再発して、昭和19年(1944)に帰国しました。終戦を迎えたのも、自宅での療養中でした。父は自宅と療養所を行ったり来たりしながら5年間がんばりました。家族を養うため、体調のいいときは郵便局で働いていましたが、昭和24年(1949)5月に亡くなりました。



 だから僕には父の思い出があまりないんですよ。物心ついた時にはもう寝ついていましたから。よく覚えているのは、父が体調のいいときに出勤していた郵便局に行って、父からバリカンで頭を刈られた時のことです。なぜわざわざ郵便局でそんなことをしたのか覚えてないのですが、父がバリカンを使うのが下手で、僕の髪の毛をはさんだまま引っ張るんですよ。思わず「痛い!」と言った記憶があります。
 あと父との思い出といえば、兄と一緒に当時は貴重だった白いお米を届けたことですね。病状が悪化した時、父は軽井沢の隣町、群馬県松井田の療養施設に入院していました。当時はまだ戦後の配給制度の時代で、お米が手に入りにくい時代だったので、白いご飯が手に入ると、父の療養施設に届けていたんです。僕たちのご飯は、帰りに松井田の農家で買ったお芋。兄が小学校3年で、僕が小学校に入学するかどうかという頃ですね。当時はそういう暮らしを貧乏だとか大変だとかとは思わなかったけれど、母の着物は全部お米に変わりました。
 父が亡くなった時、僕は小学校3年生でした。兄はその少し前に体調を崩し、東京の東久留米の病院に入院していました。当時、軽井沢には子供用の入院施設がなかったのです。だから父の亡骸をリヤカーに載せて母と一緒に軽井沢の焼き場まで運んだ時は、兄はいませんでした。弟はどうだったかなあ。確か父方の叔父が来てくれていたような気はするんですけど。
 父は僕が物心ついて以来ずっと病気だったし、兄も身体が弱かったので、僕はずっと「僕が頑張らなくちゃ。僕が家族を支えなくちゃ」と思って育ちました。当時は今と違ってスイッチひとつでご飯が炊けたり、お風呂が沸くような時代ではないので、ご飯の煮炊きや風呂用の薪(まき)は全部僕が準備していました。木材をまず鋸(のこぎり)で切って、鉞(まさかり)や鉈(なた)で割ってね。間違えて鉈が手の甲に当たった時の怪我の傷跡は今も残っています。畑仕事も手伝いました。母は小さな畑を借りていたんですけど、小学校に行く前から肥桶(こえおけ)かついでいましたからね。弟はずっと一緒でしたけど、おとなしいタイプでね。いつも僕の後ろをついて歩いていましたよ。
 小学校には片道4キロ歩いて通っていました。子供の足ではゆうに1時間はかかりました。帰りは友達と大きな声で歌いながら「僕の方が高い声を出せる!」なんて自慢したり、ちょっと寄り道したりしてね。大雪の日でも通っていたのですから、それが当たり前だったとはいえ、本当に元気でした。

軽井沢の別荘文化に育まれた
 父が亡くなってしばらくした後、軽井沢を引き払ったので、軽井沢での暮らしは10年もありません。でも記憶は今も鮮やかです。特に印象に残っているのは、3歳頃から通っていた日曜学校と幼稚園ですね。父が病気になったり、生活が苦しかったりと辛い日々が続くなかで、子供として過ごせる貴重な時間でした。日曜学校も幼稚園も同じキリスト教の教会がやっていたと思うのですが、特に日曜学校での時間が本当に楽しかったんです。
 日曜学校というのは、キリスト教の教会が主に子供たちを対象にして行うもので、礼拝や聖書の勉強をします。僕が通っていた教会の牧師さんは日本人の方で、よく讃美歌を歌いました。僕は母が長唄を歌いますし、松本の母方の実家に行くたびに祖父の義太夫を聞いていたものですから、歌うのが好きでね。家でも藤山一郎や美空ひばりのような流行歌を歌っては、「大人の歌を歌うんじゃない」と、母から叱られていたくらいなので、日曜学校で大きな声で歌うのは楽しみでした。

 キリスト教の教会があったのは、軽井沢が明治の頃から外国人の避暑地だった名残でしょうね。町全体にハイカラな雰囲気がありました。また軽井沢には日本の華族や政財界の要人、著名人などの別荘もあって、「別荘文化」というようなものもありました。避暑地なので、1年のうち、賑やかなのは7月から8月にかけての1か月半ほどなんですけど、夏場は本当に華やかでした。
 今はもう廃線になってしまいましたが、当時はまだ軽井沢と草津温泉を結ぶ草軽(くさかる)電鉄が走っていて、夏の間だけイルミネーション付きの白樺電車を走らせていました。白樺電車というのは、貨車を改造して作られたオープンエアの展望客車です。車体の柱などに本物の白樺の木が使われていて、いかにも高原を走る夏の電車という洒落た雰囲気がありました。
 そうそう、今でも大人気のフランスベーカーリーは小学校の同級生の家がやっていました。僕たちは「おあまりのパン」と呼んでいましたが、時々、その「おあまりのパン」をいただけるんです。それが本当に美味しかった。
 町の中全体も映画の中みたいな雰囲気があってね。ご婦人方が赤いマニキュアをして真っ白なパラソルを差して、白樺の木を内装に使ったカフェのテラスでお茶を飲んでいて……。アイスコーヒーをストローでかき混ぜるカランカランという氷の音はいまだに耳に残っています。コーヒーの匂いも鮮烈でした。いまだに思い出せますねえ。
 ファッションも華やかでした。夏の間、ご婦人方はショートパンツを履いていましたよ。ゴルフ場ではゴルフ・ウェア、テニスコートではテニスのスコート。キリスト教の教会では華やかに着飾った外国人の方々。僕たちには本当にまぶしかった。
まさに軽井沢には明治以来の西洋人のための避暑地の文化と、日本の別荘文化が根付いていました。



母の3人の姉
 実は僕の家族が軽井沢で住んでいた家も、母の次姉の家の別荘でした。実は母の3人の姉はみな、たまたま東京に嫁ぎ、浅草に住んでいました。3人の姉のうち、次姉の夫、僕から見ると伯父さんですが、その伯父が戦前から手広く事業をやっていて、軽井沢に別荘を何軒か持っていたんですね。そのうちの1軒を借りていたわけです。
 昭和19年になって空襲が激しくなると、その3人の姉たちが子供を連れて東京から疎開にやってきたので、とてもにぎやかでした。いとこたちと一緒に幼稚園にも通いました。
 ちなみに母のすぐ上の姉は浅草の猿若町に住んでいたことから、「猿若美人」と称されたほどきれいな人で、いつもハイカラな格好をしていました。流行に敏感で、最先端の服を京さっさと自分で仕立てて着ていたそうです。

前回:https://www.nihonbunka.or.jp/column/yomimono/detail/100968

取材・文/岡田尚子
(次回更新:11月9日予定)

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