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NEGORO 根来 — 赤と黒のうるし
令和7年12月4日


 年月を経て摩耗した朱漆の下からのぞく黒漆。赤と黒の漆がおりなす、二つと同じものはないその器だけの「景色」。根來寺(ねごろじ/和歌山県)に由来し、内外の熱狂的なコレクターの心をとらえて離さない漆器「根来」。その名品を堪能できる展覧会が、東京・六本木のサントリー美術館で開催中です。

 縄文時代の遺跡からも漆で塗られた道具が見つかっていることからもわかるように、日本では漆器は日本人の暮らしにおいて古くから身近にありました。
 そうしたなか、その質の高さで特別視されてきたのが、根來寺で作られてきた「根来塗(ねごろぬり)」です。根來寺は、空海(弘法大師)を始祖とする真言宗の宗派の一つ、新義真言宗(しんぎしんごんしゅう)の総本山。創建は平安時代末期に遡り、中世後期(室町時代~戦国時代)には大寺院として栄華を極めました。天正13年(1585)に豊臣秀吉によって滅ぼされますが、江戸時代に紀州徳川家によって復興を遂げ、現在でも広大な敷地内に国宝を含む多くの建造物を有しています。
 根来塗とは、堅牢な下地を施した木地に黒漆を塗り、その上から朱漆を塗った漆器(朱漆器)です。根來寺ではそれらを僧侶たちが日常的に用いる什器や仏具として用いていたといいます。ただ、一度滅びたせいか、現在、伝来の確かな根来塗の伝世品は極めて少なく、工房跡すら見つかっていません。
 しかし、滅びた後も根来塗の名声が絶えることはなく、江戸時代以降、朱漆器はその産地を問わず「根来」の名で呼ばれるようになりました。朱漆器そのものは、根來寺よりも前から各地で作られていたことを考えると、根来塗はよほど美しくかつ耐久性に富んでいたのでしょう。そしてそれらの朱漆器は、社寺などの信仰の場で重用されただけではなく、人々の暮らしの中でも大切にされてきました。
 本展覧会は3章で構成されており、根來寺が繁栄を極めた時代の漆工品に加え、その前後の時期に制作された伝来の確かな名品、さらには現代における「根来」の位置までをも俯瞰できる展示となっています。著名人の愛蔵品も紹介されています。
*本展では、根來寺で生産された朱漆塗漆器を「根来塗」、「根来塗」の様式を継承した漆器、または黒漆に朱漆を重ね塗りする技法そのものを「根来」と称しています。

第1章―根来の源泉
 オープニングを告げる章では、赤と黒の漆工品の中から、「根来」という呼び名が定着する以前の時代の名品が展示されています。



 まず目に飛び込んでくるのは、本展のポスターにも採用された東京・サントリー美術館所蔵の瓶子(へいし)です。高さ32.5センチとかなりの大きさがあります。頂上に位置する筒状の小さい注口(そそぎぐち)から緩やかな局面を描いて張り出した両肩、そこからいったん細くなり、裾に向かって再び末広がりとなる姿は、優美でありながらも堂々としています。そして上に塗られた朱漆と、その下からのぞく黒漆との絶妙なコントラストが見事です。
 瓶子は神に献酒するための神饌具(しんせんぐ)として、通常は二口一対で神前に供えられました。今回、この瓶子と、この瓶子の隣に展示されている滋賀のMIHO・MUSEUM所蔵の瓶子は一対であると考えられているとのことで、実際、赤と黒の「景色」は異なるものの、ほぼそっくりです。かつては一緒だった2つの瓶子が、長い年月を経て、つかの間とはいえ再び一対となったというわけですね。


 同じコーナーには重要文化財の黒漆の瓶子も展示されていました。こちらは二口一対で、奈良の惣社水分(そうしゃみくまり)神社所蔵の品です。胴部に朱漆で銘があることから、貞和2年(1346)の制作であることや、制作当初から惣社水分神社に伝来していたことが判明しています。黒漆のどっしりとした重厚なたたずまいが、見る者を厳粛な気持ちにさせます。



 この第一章では、和歌山・熊野速玉(はやたま)大社所蔵の国宝「唐櫃(からびつ)」(熊野速玉大社古神宝類のうち)と、奈良・大神(おおみわ)神社所蔵の重要文化財「楯(たて)」も展示されています。




第2章-根来とその周辺
 本章では、豊臣秀吉に攻め入れられて滅ぼされた根來寺坊院跡の発掘調査や、寺院資料などから判明した、往年の根來寺周辺の様子と、同時代に各地で作られた「根来」を展示しています。




 まずご紹介したいのは奈良・東大寺所蔵の重要文化財「二月堂練行衆盤(れんぎょうしゅうばん)」です。今回は前期・後期で3枚ずつ計6枚が展示されます。東大寺では毎年3月、「お水取り」として知られる修二会(しゅにえ)が行われます。これは、練行衆と呼ばれる11人の僧侶が、二月堂の本尊に向かってみずからの過去の罪を懺悔し、あわせて仏法興隆、天下泰安、万民豊楽(ばんみんほうらく)、五穀豊穣などを祈る法要です。この盤は、練行衆が食事をとる際に食器類を載せるために用いられました。
 これらの6枚の盤は、底裏の銘から永仁6年(1298)の制作であることがわかっています。表面の中央には漢数字が描かれ、数字を取り囲むように広がる赤と黒の「景色」はすべて異なっています。修二会は天平勝宝4年(752)に始まって以来、今に至るまで一度も途絶えたことがなく、来年の令和8年(2026)に1275回を数えます。盤に見入っていると、「景色」の先に一心に祈りを捧げる練行衆の姿が浮かぶようでした。



 こちらはサントリー美術館所蔵の「湯桶(ゆとう)」です。湯桶は湯を入れて注ぐための器で、祭礼や祝宴、寺院での食事や茶礼などにおいて、大勢の人に湯を注いで回るために作られました。元来は金属器だったものを木製漆塗として写したといいます。把手(とって)の形が非常にユニークです。この湯桶は12月15日までの展示です。

 12月17日からは、大阪の堺市博物館所蔵の重要文化財「太鼓樽(たいこだる)」と、茨城の水戸大師 六地蔵寺所蔵の重要文化財の「布薩盥(ふさつたらい)」二対四口が展示されます。


 この太鼓樽は室町時代の文明5年(1473)、高野山の地主神である丹生都比売大神(にうつひめのおおかみ)に、常備の酒器として捧げられたもの。「丹」は朱を意味することから、朱漆塗り酒器はまさに丹生都比売大神にふさわしい品といえます。



 布薩盥は仏具です。仏教寺院では、毎月15日、衆僧が集まって罪を懺悔する布薩会(ふさつえ)を行います。布薩盥は、その際に衆僧が手を浄めた水を受けるために用いられました。二対四口の各底裏にある銘から、根來寺で漆器制作が行われていたことがわかる貴重な遺品であるとともに、制昨年が寛正3年(1462)~天文8年(1539)であることがわかっています。

第3章-根来回帰と新境地
 第3章では、江戸時代以降の「根来」をめぐる動きを紹介しています。天正13年(1585)に根來寺は衰退しますが、江戸時代には名品の蒐集や模写が始まり、明治時代には多くの人々を魅了するまでになります。さらに大正15年(1926)に柳宗悦(やなぎむねよし)や河井寬次郎らによって提唱された民藝運動によって、「根来」は実用品としてだけではなく、愛でるべき美術工芸品として位置づけられるようになりました。本章では白洲正子や黒澤明など著名人の愛蔵品も展示しています。



 こちらは京都・鍵善良房(かぎぜんよしふさ)所蔵、黒田辰秋(たつあき)の制作による「根来塗平棗(ひらなつめ)」です。黒田辰秋(明治37年~昭和57年)は京都出身の漆芸家、木工家で、昭和45年に人間国宝に認定されています。棗は茶道において抹茶を入れておく容器で、平棗はその名の通り平らな形状が特徴です。この平棗には刷毛で漆を塗った後などがまったく見当たらず、そのつややかさに驚かされます。



 日本映画の巨匠、黒澤明も「根来」の愛好家でした。瓶子や丸盆などをコレクションしていたようですが、本展には「輪花盆(りんかぼん)」(京都・北村美術館所蔵)と、「曲盆(まげぼん)」(個人蔵)が出展されています。
 また、全26工程におよぶという工程見本も展示されており、根来塗が完成するまでの複雑な過程がよくわかります。作者は池ノ上辰山(しんざん)氏で、根來寺が滅びた際に一度は失われたという根来塗の技法を復興した根来塗師です。

 身近な暮らしや信仰の場にあり、実際に用いられたことによって生じた赤と黒のコントラスト。その「景色」に宿った根来の「用の美」は、今もなお見る者を魅了してやみません。


NEGORO 根来 — 赤と黒のうるし
会期 2025年11月22日(土)~2026年1月12日(月・祝)
[休館日]火曜日(1月6日は18時まで開館)、12月30日(火)~1月1日(木・祝)
*作品保護のため、会期中展示替を行います
※詳細は下記公式サイトへ
https://www.suntory.co.jp/sma/exhibition/2025_5/
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