読みもの
大鼓方・河村凜太郎さん「能楽師の家に生まれて」#1
中世にさかのぼる伝統芸能である「お能」は、知れば知るほど面白く、人をひきつけて離さない魅力があります。でも、古い時代の言葉づかいや、ゆっくりした抽象的な動きなど、予備知識なしでは難しく感じてしまうことも。
そんなお能の世界の扉をぐぐっと開いてくれるのが「月イチ能楽講座」です。関西の若手能楽師のホープたちによる、軽妙なトークに迫力ある実演を交えての解説は「わかりやすい!」「楽しい!」と評判。そのメンバーによる本連載。今回からは、京都を拠点に活躍する若手の大鼓(おおつづみ)方である河村凜太郎さんに、これまでの歩みを綴っていただきます。

月イチ能楽講座
東京・大阪・京都で毎月開催、毎回お能の1つの曲(演目)を題材に、能楽師シテ方の大槻裕一(おおつき・ゆういち/写真右)、小鼓方の成田奏(なりた・そう/写真左)、大鼓方の河村凜太郎(かわむら・りんたろう/写真中央)が、若いエネルギーとみなぎる情熱、関西ノリの話芸とキレのある技で、たっぷり解説。オモシロ企画満載のインスタグラムも必見。
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1997年10月11日、私・河村凜太郎は、能楽師の大鼓方である父・河村大(かわむら・まさる)の長男として生まれました。この日から今日に至るまで、常に能楽師になるためだけに生きてきた――というわけでは、実はありません。紆余曲折を経て、気がつけば「なんだかんだ」で能楽師という職業をさせていただいている、というのが正直なところです。
私の家が能楽師を家業とするようになったのは、名古屋でシテ方として活動した曾祖父の代からです。その息子である祖父は大鼓方に転向し、同じく大鼓方となった父は、大学卒業後に名古屋から京都に移り、以来、京都を拠点に活動しています。

子ども心に抱いた使命感
私が「能楽師」という将来の姿を意識し始めたのは、おそらく幼稚園のころだったと思います。記憶はあまり定かではありませんが、年長のとき、親も交えたお楽しみ会のような催しがあり、その中でステージに立ち「将来なりたいもの」を発表する場面がありました。
幼稚園児だった私にとって、この問いは非常に難しいものでした。未来のことなど、ほとんど考えたことがなかったからです。当時の私にとっての「未来」とは、遠足を楽しみにすることや、その日の晩ご飯に思いを巡らせる程度のものでした。
しかし、私の前では同級生たちが次々と「なりたいもの」を発表していきました。花屋、消防士、警察官――そんな職業の名前が飛び交う中、私は自分の番が回ってくるのを、少しビクビクしながら待っていました。そんなとき、ひとりの男の子が「ウルトラマンになりたい」と大きな声で発表しました。私は瞬間的に「これだ」と思い、彼の真似をすることにしました。やがて出番が回ってきた私は、特別な憧れもなかった“なりたいもの”を、大きな声で「ウルトラマン!」と発表しました。
ステージを降り、得意げな顔で母のもとへ駆け寄ると、母は笑いながら「能楽師になるんじゃないの?」と言いました。その一言は、今でもはっきりと覚えています。そのとき私は、「そうか、能楽師になるのか」と、妙に納得しました。そして、「能楽師にならなければならない」という小さな使命感が芽生えたのも、おそらくこの瞬間だったのだと思います。

姉と通った幼少期の稽古
私には三歳年上の姉がいます。この頃には姉とともに、京都市内のシテ方の先生のところへ謡(うたい)と仕舞(しまい)のお稽古に通っていました。謡とは、お能の詞章を決まった節(ふし)や発声で謡うもの。仕舞は、装束や面(おもて)をつけずに、お能の一部の舞や所作を謡に合わせて舞うもの。能楽師は、楽器を演奏する囃子(はやし)方の場合でも、まずは能楽の基本となる謡と仕舞からお稽古を始めます。

稽古の行き帰りには、母の自転車の前後に私と姉が乗り、二人で謡を口ずさんでいたことを覚えています。当時の私にとって能は、姉と一緒に通う楽しい習い事、という感覚でした。単純に声を出したり、体を動かしたりすることが楽しかったように思います。もっとも、幼い私たちに集中力があるはずもなく、すぐにぐずったり騒いだりして、先生にはさぞご迷惑をおかけしていたことと思います。それでも先生は、足袋の履き方や正座の仕方といった基本的なことから、丁寧に教えてくださいました。
今振り返れば、ここでのお稽古こそが、私の能楽師としての原点であったと言えるのかもしれません。今でも謡のお稽古には時々伺わせていただいています。
幼少の頃には、子方(子役)として舞台に出ていたこともありました。記憶はないのですが、『鞍馬天狗(くらまてんぐ)』という稚児(ちご)役の子方が大勢出る曲(演目)では、姉と一緒に舞台に立ったこともあったようです。
鳥肌の立つ舞台
幼少期の頃は、母に連れられて父の舞台を見に行っていました。舞台上では、大人たちが意味のわからない大声を出しながら楽器を演奏し、奇怪でありながらも美しい装束をまとった人々が、謡い、舞っていました。
謡の抑揚やリズム感は、お稽古を通じて聞き慣れたものではありました。でも、子どもの頃に習うのは曲の一部分ですし、子どもは大人と同じような発声や調子では謡えません。舞台上で繰り広げられていることと、自分がやっている稽古とは、子どもの自分の頭の中ではなかなか結びつきませんでした。シテ方が着ける面(おもて)には、子どもの目には不気味に映るものもありました。母が言うには、シテがつけた鬼の面を怖がった私が、能楽堂から逃げだしたこともあったそうです。

能の知識がなかった私は、舞台上で何が起こっているのかまったく理解できず、隣にいる母に「これ誰?」「何してはるん?」と質問を繰り返して困らせていました。それでも、不思議なことに、能は退屈で嫌なものではありませんでした。仕舞や謡を習っていたこともありますが、それ以上に、舞台の上から発せられる強いエネルギーを、子どもなりに感じ取っていたのだと思います。
能はなんの予備知識もなく観て、ストーリーをすべて理解できるものではありません。ただ、必ずしもストーリーを理解していなくても、観ている側が舞台から気配や気迫を感じ取り、感動を生むことができるのが、能の大きな魅力だと思います。それは、能を初めて観る大人の方にも当てはまることではないでしょうか。
私は、舞台上の一人ひとりの表情を見るのが好きでした。必死に謡い、舞い、掛け声をかける大人たちの姿には、子どもながら心を打たれ、思わず鳥肌が立つこともありました。ふだん大人が必死になっている場面を見る機会というのは、めったにありません。舞台での父も、家での父とは違っていて、そんな父の姿を「かっこいいなあ」と思って見ていました。

(次回に続きます)
成⽥奏さんの記事は↓
https://www.nihonbunka.or.jp/column/yomimono/detail/100769
大槻裕一さんの記事は↓
https://www.nihonbunka.or.jp/column/yomimono/detail/100815