連載[第16回]

孫世代の遺族たちのそれぞれの思い

硫黄島に触れた時 連載 第16回
令和7年11月4日

■連載[第16回]
「一人娘」をめぐって。奈良の旧家の末裔たち その1
吉川家のきょうだい(昭和39年生まれ他、戦没者・母方の祖父)の場合

●母が言っていた硫黄島の「匂いや熱」
 松井賀洋子(かよこ)さん(57歳)と杉岡陽子さん(52歳)の姉妹に会ったのも、令和4年(2023)の「硫黄島訪島事業」においてだった(年齢は当時、以下同)。話を聞いたのは、硫黄島から戻ってホテルで荷物の受け取りを待っている間だった。
 松井さんは奈良から、杉岡さんは大阪からの参加だった。硫黄島への出発は朝早い。そのため、前日に埼玉県の入間(いるま)基地近くのホテルに一泊する。硫黄島へは必要最小限の荷物しか携行が許されず、地方から参加した多くの人はホテルに荷物を預けて渡島する。島から帰ってきたばかりの松井さんは、想いを巡らすように、一言一言、感情を込めて語った。
「島が見えた時、栗林中将もこの風景を見はったのかと思うと……頭だけの知識に血が通った思いがしました。ただ、今の思いを言葉に表すのはなかなか難しいです。
 行って良かったと思います。慰霊祭にも参加できましたし。母が言っていた硫黄島の匂いや熱を感じることができました。やはり、その場に身を置かないと分からないですね。遺族という自覚ですよね。それができたと思います」
 栗林中将とは硫黄島の戦いにおける日本軍守備隊の最高指揮官・栗林忠道(ただみち)のことである。クリント・イーストウッド監督の映画『硫黄島からの手紙』の印象が、松井さんの心に強く残っていたために出てきた言葉だ。タイトルの「硫黄島からの手紙」とは、硫黄島から家族に宛てた栗林中将の手紙のことである。

●ひたすらに一人娘のことを案じて
 姉妹にとって硫黄島での戦没者は祖父にあたる服部源一(げんいち)である。その一人娘である史子(ちかこ)さんが姉妹の母だ。その母親・史子さんにとっても、父である服部源一の記憶はわずかにしかないという。母親が1歳の時に、父・源一は再度の応召により硫黄島へと向かわされ、そのまま2歳の時に亡くなっているのだ。あるのは父親に抱かれている記憶である。しかし、それも写真で見たものが記憶めいたものになったのかもしれない。というのも、服部家には、服部源一からその両親と妻へ宛てた手紙が16通残っていたからだ。母親はもとより姉妹にとっても、その「硫黄島との往復書簡」は戦争中の家族の絆を知る大きな手がかりとなっていたのである。松井さんは言う。
「手紙の最後には必ず『元気で朗らかに過ごすように』と書いてあるんです。また、ある時には『写真を受け取った。史子はかわいい盛りだろう。風邪をひかさないよう、あまやかさぬよう、朗らかに育てるように』とあるんですね」
 届かなかった手紙も多くあった。運搬する船や飛行機なども攻撃対象となり撃墜・撃沈されたからだ。それを見越したかのように「前の便でも書いたが」などという文面も多かった。

●「元気に朗らかに」という手紙を書いていたところ
 姉妹の母親である史子さんは、数十年も前に硫黄島墓参団に参加し、「あなたたちもいつか行ったらいいわ」と言っていた。今回の慰霊祭において、杉岡陽子さんは慰霊碑にショートホープを供えていた。「以前、母が、硫黄島に慰霊に行ってきて『煙草を撒(ま)いてきた』と言ったのを覚えていた」からだった。
 史子さんによると、祖父・源一は煙草が好きだった。その祖父の亡骸は、米兵によって滑走路のあたりに埋められてしまったのだという。史子さんが硫黄島に行った際には、その滑走路近くまで行くことができた。そこで史子さんは、父である源一に届くようにと、一本一本、煙草の巻き紙を破ってほぐし、飲みたかったであろう大量の水と一緒にすべて撒いてきていたのだ。
「それで、煙草といえば、昔はピースかショートホープだろうと思って、ショートホープを持ってきたんです。ピースの青に対して、ショートホープはパッケージが白っぽくって慰霊にふさわしい感じですし」
 そう言いながらも、杉岡さんの目からは涙があふれてくる。
「フィルターもついてないから環境にも優しいですしね。できれば母がしたように煙草をほぐして撒くつもりでしたから」
 慰霊祭の時も涙がずっと頬を伝っていた。
「『元気に朗らかに過ごしなさい』という手紙を書いていたところは、あんなに暑くて苦しい壕の中だったと思うと、胸が詰まるようでした。涙もろくてすみません。四方を海に囲まれたところで、国のために家のために頑張って最後まで戦ってくれたから……、そのおかげで……、今、私たちがいると思うと……涙が出て仕方がありませんでした」
(続きは11月11日掲載予定)取材・文/伊豆野 誠

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