
■連載[第6回]
「やっと遺族になれた気がしました」 最終回
●硫黄島へ行ける!
結婚して驚いたことの一つは、今井家の義理の祖父がシベリア抑留者だったことだ。明治44年(1911)生まれの祖父は、昭和20年の3月に33歳で召集された。満州に赴任となり、敗戦間際に攻めてきたソ連軍の捕虜となった。それでも、昭和22年9月に帰国することができた。その後は、家業である漬物店の仕事に従事した。清彦さんによると、その苛酷すぎる体験について話さないわけではなかったが、その多くは断片的なもので、本当に辛かったことについては語っていなかったようだという。
現在、長女は京都で文系の大学院に通っていて、二女は就職して地元を離れて働いている。平成17年(2005)の「平成の大合併」で、近隣3町の合併以来、他の地方都市同様、酒田市の人口は減る一方で、小中学校の統廃合も進んでいる。経済環境も相変わらず厳しい。そんな中での硫黄島訪島事業への参加だった。先述のように令和4年のことだった。
「ネットニュースで訪島事業のことを見つけたんです。翌日の新聞にも出ていたんですが、そこでは青年会議所の若い人しか募集されておらず、行けないと思ったんです。すると、夫が日本遺族会のホームページを調べてくれたんです。そうしたら行けることが分かって。私、行ってもいい? ではなく、行くから! と気づいたら夫に断言していたんです」
夫も行きたそうにしていたが、断念した。耳に持病があり、手術もしたが、それでも気圧差に堪えられず、飛行機に乗ることができないからだった。ましてや、硫黄島への渡航は実戦仕様の自衛隊輸送機である。
●相澤家の秘密と奇妙な偶然
「やっと遺族になれた……、硫黄島で私がそう言ったのは、母の強い思いを叶えられたという思いからでした。さらには、親族の中で、私だけが相澤五郎が亡くなった場所に行くことができたという意味からです。
私は相澤家の祖母のマスミからすれば外孫で、しかも、今では今井姓です。母が嫁ぎ、私の実家である前田姓とも違います。そして、結婚後は、今井家のことを一番に考えなくてはならないと思っていたんです。ですから、相澤家とは離れた位置にいて、どこか遺族という感じとは違うのかなと思っていたんです。
それでも、母・正子が北海道の広尾町で、自分が生まれた時のことを知った時、ライブで立ち会っていたのは私です。その時の母の様子を知っているのは私だけなんです」
それは、相澤家の秘密だった。五郎の出征の経緯やその後のことなど戦後のマスミが決して語りたがらず、伯父も口に出すのがどこかはばかられる五郎とマスミの秘密、つまり母親にとっての両親の秘密だった。
奇妙な偶然の一致もあった。実は、今井さんが広尾町に行ったのは、母親と出かけた時が初めてではなかった。結婚前に、サラブレッドを見に北海道に行った時、牧場が集中する日高で馬を堪能し、旭川や帯広を巡って襟裳を経由する際に、通称「黄金道路」沿いにある広尾町を抜けていた。ほとんどがユースホステルを利用する旅で、まさに、「たまたまそういうルートもいいかと思って」通っていたのだ。
「その時は、母親が生まれたところが、広尾町だなんて、知りませんでした。ですから、母と一緒に行った時は、えっ、ここが!という感じでした」
今井さんの意識に「硫黄島」がのぼってきたのは、それからである。
「母の実家で山形の相澤家の仏間には、五郎の遺影が掲げられ、そこには、硫黄島で亡くなっていることもきっちりと書かれているんですけどね……」
相澤姓である伯父も硫黄島に行きたがった。しかし、透析を受けていて、83歳という年齢も考えると断念せざるを得なかった。
「これからは、娘二人の手も離れましたし、前田家はもちろん相澤家のことにも、母がしていた墓参りなど、関われるところはできるだけ関わっていこうと思っています。そんなに離れたところに住んでいるわけでもありませんから」
●「家」と「遺族」と「女性」
母である正子さんのルーツ探しは、娘である今井さんにとって、今もどこかに厳然と残る伝統的な「家」と「女性」のあり方さえ浮彫りにした。核家族の進展と「家制度」の消滅の過程において、個の在り方の焦点は定まりにくい。しかし、くすぶり続けた戦争の記憶こそが、今ではどこか抽象的で曖昧な「家」からは離れた「遺族」の確信を生んだ。それは、祖父が亡くならければならなかった場所を探し求めることによって可能となった。ストレートに自己の足下を確かめる道のりだったのだ。
同時に、新たな波及を呼んだ。今井さんの長女が梯久美子著の『散るぞ悲しき 硫黄島総司令官・栗林忠道』を読み、クリント・イーストウッド監督の映画『硫黄島からの手紙』を見て、いたく感銘を受けていたことに考えさせられたのだ。
長女にとってきっかけは、ささいなことだった。本は漬物店である家にあったもので、長女にとっては祖父、今井さんにとっては舅が持っていたもの、映画は長女のファンである「ニノ」つまり二宮和也が出演していたからだった。
「私は学校では平和教育は特には受けてきませんでした。原爆のことが描かれている『はだしのゲン』などといったマンガは一世代前のものです。テレビや映画で戦時中のことを見たりするくらいでした。実家の(父方の)祖母から、軍需工場で働いていたことや、空襲時には防空壕に避難していた、といった話くらいは聞いてはいましたけど。
ただ、子供の頃には傷痍軍人が町に少なからずいました。祖母に、どうしてあの人の腕は無いの? と聞いたことを覚えています。戦争の気配は、身近なところにまだ残っていたんです」
だから、伝えられることは伝えていこうと思っている。そうしないと、今に続く祖先の足跡は残っていかないし、現在を生きる自分たちの立ち位置が不明確になると思うのだ。
今井さんの甥っ子の一人は、海上自衛隊に勤務している。自ら志願して入隊した。現在(令和4年11月)は、海外公務中だが、奇しくも、相澤五郎が硫黄島に赴任して行った横須賀基地勤務だ。今井さんが硫黄島に行ったことを聞いた彼は、今度、詳しく聞かせて欲しいと、言ってきている。その甥っ子とは、今井さんと母親が広尾町に行った時に、今井さんの娘たちと観光がてらに一緒に行った、あの幼かった甥っ子である。(了)
(次回は9月2日掲載予定)取材・文/伊豆野 誠
