
■連載[第17回]
「一人娘」をめぐって。奈良の旧家の末裔たち その2
●頂上に星条旗が上がるのを阻止しようとして
一人娘のことが可愛くて仕方がなかった服部源一は、米軍の上陸後すぐに激戦が行われた摺鉢山(すりばちやま)地区隊の副官だった。上陸開始3日後の未明、摺鉢山の頂上に星条旗が上がるのを見て、それを降ろし再び日章旗を揚げようと突進して亡くなった。摺鉢山に星条旗が立てられるシーンは有名だが、最終的にあげられるまでには何度かの攻防があったのだ。享年29歳だった。その死の瞬間について、母親が繰り返し語っていたことを幼心によく覚えていると杉岡陽子さんは言う。
長女・松井さんと次女・杉岡さんの間には、長男の吉川将広(まさひろ)さんがいる。今回、「硫黄島に行こう」と言い出したのはその吉川さんだった。その際、吉川家の長男である智紀(ともき)さん(25歳)と、杉岡家の長男である純平さん(24歳)も見ておきたいと言い出し、参加することになった。戦死した服部源一のひ孫にあたる。しかし、その音頭取りの吉川将広さんは、ちょうどその時期に新型コロナにかかってしまい来ることができなくなってしまった。
障がい者支援の花関連の仕事に就いている吉川智紀さんは、職場で一番うまい人にアレンジしてもらったという花束を大事そうに抱えて慰霊祭に臨んでいた。
「自衛隊のプロペラ機で2時間半かけて島に到着すると、暑さと硫黄の匂いが迫ってくるようでした。今まで、追悼録などを読むだけでは、今一つ実感がわかなかったのですが、曽祖父の硫黄島での死が、リアルに感じられる思いがしました。遺骨収集の場や壕の跡を目の当たりにすると、当時、曾祖父はどういう気持ちでここにいたのか、そのモチベーションなどに思いを巡らせていました」
硫黄島では今も遺族による遺骨収集が行われている。また、「追悼録」とは、平成6年(1994)の服部源一の五十回忌に親族によって作られ、縁者に配られた『服部源一追悼録 嗚呼 硫黄島』のことである。訪島時に大学院生だった杉岡純平さんも、その『追悼録』を持参していて、そこには多くの付箋がつけられていた。
「貴重な経験になりました。曽祖父が戦死していたことは知ってはいましたが、硫黄島で死んだことは、今回、親族でここに来ることになって知りました。それが、この追悼録を読むきっかけになったんです。
曽祖父は2月22日に亡くなっていますので、19日に米軍が上陸して、敵を目前に戦ったのは2~3日のことです。家族へ宛てた軍事郵便には家族への強い思いや今後のことを思う気持ちだけが書かれていて、自分の辛さや苦労は書かれていません。交戦を前にした壕掘りなどの合間に書かれたんでしょうけど、その気持ちにグッときていたんですね。壕などを見ることによって、交戦までに費やした時間を感じることができました」
硫黄島では、一同が摺鉢山山頂からある方面を一心に見つめる姿が印象的だった。その方向とは服部源一が亡くなったと目される場所だった。『追悼録』には、写真上にその場所が示されていたのだ。その貴重な『追悼録』の借用をお願いすると、二人は快く応じてくれた。

●代々続く家業。徴兵の兄が戦死し、軍人の弟が復員して
『服部源一追悼録 嗚呼 硫黄島』を作ったのは、服部源一の弟・源二(げんじ)である。
服部家は、奈良県の桜井で木材商「木屋源内(きやげんない)」を営んでいた。創業は江戸時代中期・宝暦(ほうれき)年間(1751~1764)という老舗である。当主は代々「源内」を名乗り、屋号を「木源(きげん)」と称した。源一はその名が表しているように長男で、戦死の報を受けた時、その父・源内は「段取りが狂った」とひどく落胆したという。
しかも、徴兵によって兵役についた源一に対し、源二は陸軍士官学校を卒業した職業軍人だった。源二にとっては「一身を国家に献(ささ)げた現役軍人の私が帰郷し、服部家の総領嫡子である兄が硫黄島で戦死」したことに対して複雑な思いを持ち続けていた。だからこそ「復員し武士の商法ながら兄・源一に代わり、歴史のある木源の事業を経営している源二の、生存中になすべき責任であり尊い事業」として『追悼録』を編集・執筆した(「序」より。引用は一部要約、読みやすいように仮名遣いなども含めて変更、以下同)。
「あとがき」には「昨年4月、肺線維症と診断され、常時、在宅で酸素吸入器のお世話になっており」、「命のある間にどうしても兄源一の追悼録を記述しておきたいと資料収集に努めてきた」とある。
実際、『追悼録』における硫黄島戦についての記述は詳しく、防衛庁戦史室資料に依ったものや、戦況報告の電報集、昭和46年(1971)に硫黄島の壕内で発見された日本軍の戦闘指導要領まで載せられている。部隊の配置が詳しく書かれた「硫黄島最終配備図」まで挿し込まれ、その地図の摺鉢山近くにも、赤い文字で「陸軍中尉服部源一戦死の場所」と示されていた(前回参照)。
総ページ数は322ページ、表紙には、桜に太陽が書かれた画に金のタイトル文字が載せられ、A5判・箱入りという立派な体裁である。あとがきの文末には「平成6年2月22日発刊 陸軍大尉服部源一副官戦死の日」とあった。その横にはモーニングと紋付色留袖(もんつきいろとめそで)で正装した源二夫妻の穏やかな写真が載せられている。胸には勲章も付けられていた。
(続きは11月18日掲載予定)取材・文/伊豆野 誠

