
■連載[第21回]
「一人娘」をめぐって。奈良の旧家の末裔たち その6
●酒造業を営み木材商になった服部家の「家憲(かけん)」九条
『追悼録』の巻頭には、「遺言」と墨書された端正な文字が大きく掲載されている。源一が残した遺言状に書かれていた文字だ。それは、戦死広報を受けた家族によって開かれた。
原稿用紙に墨で3枚。父母への感謝、妻と娘への励まし、弟には国への忠誠が説かれていた。そして、「服部家子孫へ」とあり、以下の文言が書かれていた。
「源一告グ
悠久ノ大義ニ生クル我アルヲ思ヒ常ニ家憲(かけん)ニ遵(したが)ヒ斎家(さいか)スベシ」
「家憲」とは、家族や子孫が守るべき決まりごとであり、「斎家」は、家をととのえ治めることをいう。この文言が「遺言」の文字と共に『追悼録』の巻頭に載せられている。
服部家には、全9条の「家憲及び家訓」があった。「第一条」は「忠君愛国は臣民の本分なれば一旦緩急ある時は一身一家を国家に献(ささ)ぐべし」。その他は、生き方や家庭のあり方、先祖を敬うことなど道徳的なものが多いが、商家ならではのものが第六条だ。
「当主たる者、一婦を厳守し、酒莨(しゅろう/酒と煙草:筆者注)については禁を理想とする。保証等に関しては過去、酒造業時代に加判(判を押すこと)保証により倒産せるを反省し投機事を慎み加判保証、貸借等一切なすべからず」
源一はこのような歴史ある商家の長男として生を得たのである。第六条にあるように、木材商の前は酒造業を営んでおり、さらにその前は庄屋だった。源一は学業に秀で、『追悼録』には学校などで評された多くの賞状も掲載されていた。



●妻・瑳巴子は母の弟の長女、つまり、いとこだった
それでは戦後に、未亡人となった瑳巴子と一人娘の史子はどうなっていったのか。源一の生い立ちと妻とのなれそめから見ていく。
源一は大正5年(1916)2月3日に生まれている。桜井尋常小学校から奈良県立奈良商業学校へと進学し、同校卒業後の昭和9年(1934)には、病気がちだった父に代わって6代目当主となった。20歳になった昭和11年(1936)、徴兵により近衛歩兵第四連隊に入隊。甲種幹部候補生に合格し、最終的には陸軍中尉となって、昭和16年(1941)に召集解除となり満州から帰国した。
同年、母・栗惠の弟の長女、つまり、いとこで同い年の瑳巴子と結婚、2年後の昭和18年に史子が誕生するも、その翌年に再度の応召となって帰らぬ人となった。
本来は別人が副官職として招集予定だったが、その人が発病し、副官の任務が可能な源一が任命されたのだという。所属した摺鉢山地区隊は、大阪・和歌山・奈良の出身者で構成されていた。総員は303名で、そのうち生還したのは6名だった。
●背が高く将校マントを着てニコニコと
源二の妻・和子は、源一の五十回忌に追悼詞を寄せている。そこには、源一の人柄が偲ばれるエピソードが書かれていた。
「私が女学校を卒業して奈良の叔母さんのところへ御挨拶に行くのに、姉と二人で桜井の駅へ行き、汽車の切符を買おうとしましたが、ちょうど駅員が窓口にいなくて汽車が入って来そうで困っておりました。その時、将校マントを着た軍人さんが『オーイ』と駅の方を呼んでくださいました。それが服部のお兄様でした。おかげで切符を求めて無事、汽車に乗ることが出来、『有難うございました』と、お礼を申しましたのが、お会いした最後になってしまいました。背が高くニコニコとされていたお顔がいつも思い出されます。(後に)私が弟の源二様へ御縁あって嫁ぎました。
お母さんは折につけて、お兄さんのことを話しておられました。お店と座敷の間に広い軒(のき)がありました。その中にギッシリと薪が美しく切って積み重ねてありました。本当に沢山たくさん積んでありました。今こうして、したためておりましても、『源一が出征する前に、ちゃんと薪を詰めておいてくれた、本当によく気をつけて出征する前の日まで色々と……』と、話されたお母さんとお兄様のことが思い出されて涙が出てきます。その薪を一本一本、かまどにくべながら本当に勿体ない思いがしたのが忘れられません」
その母・栗惠は昭和58年(1983)に95歳で亡くなった。父・源内は、戦後5年が経った昭和25年(1955)に64歳で亡くなっていた。
●浮かび上がってこない瑳巴子と史子のその後
『追悼録』には、服部家の家族構成一覧が載せられている。父・源内と母・栗惠を筆頭に源一、源二とその姉2人、次に、源二の妻及び長男とその子供たちである。
源一の妻・瑳巴子と娘・史子は、その末尾の別枠に収められている。瑳巴子のところには、付記として、昭和23年(1948)1月15日に「河合家に復籍」し、「吉川家に再婚」したとある。史子のところには、「吉川英昭に嫁す」とされていた。
「河合家」とは、母・栗惠の実家でもある。瑳巴子は栗惠の弟・河合和三郎の長女であり、源一とは同い年のいとこであった。瑳巴子は、夫の死後3年目に実家である河合家に戻って、再び河合瑳巴子になり、再婚して吉川瑳巴子になった。そして、その再婚相手の長男・吉川英昭と史子は結婚したのだという(系図2参照)。
『追悼録』には、「兄源一が特に御縁のあった人々」という章立てがあり、奈良県木材会社社長などと共に史子のことが紹介されている。「吉川史子様」と題し源二が書いた文章だ。
「(前略)現在はご縁があって再婚された母の御主人の御長男[一部上場会社の取締役]に嫁がれ御子様にも恵まれ形而上下、実にすばらしい幸福な人生を過ごしておられます。(中略)父上としての服部副官のご冥福とご加護により吉川史子様の御多幸を心よりお祈り申しあげる次第です」
一方、この章において、吉川瑳巴子についての言及はない。瑳巴子は、平成5年(1993)に76歳で亡くなっている。『追悼録』が刊行される前年のことだ。『追悼録』からは、瑳巴子と史子の「その後」についてそれ以上の手掛かりを得ることはできなかった。
(続きは12月16日掲載予定)取材・文/伊豆野 誠
