
■連載[第26回]
「一人娘」をめぐって。奈良の旧家の末裔たち その11
●母の思いを硫黄島につなげて
ここ数年、母親の認知症と父親も体調がすぐれないため、きょうだい3人で協力してケアにあたっている。その際、急なトラブルや通院などがあった時に対処しやすいのは、仕事をもっていない陽子さんだ。以前からも、真っ先に電話がかかってくるのは陽子さんだったが、さらに母親と話す時間が多くなった。
その際、母親が祖母との間にあった出来事をさまざまに吐露する時、陽子さんはこう言うことがある。
「おばあちゃんは、亡くなって向こうに行って、絶対、桜井の源一さんに怒られてはるで、って。だって、『史子、史子』って、あんなに言われてはったわけでしょう。なのに、おばあちゃんは史子のことを大事にしなかったって。そうすると、母は『そんなん、知らんけど』と言うんです」
過去にあった嫌な出来事そのものを話すことはできても、その時それぞれの感情や思いは表現できない。それが認知症のせいなのか母親が生きた時代性なのかは分からない。しかし、形にならない意識はどこかに接続されなくては彷徨うばかりだ。
「そういう思いを、心で『おじいちゃん』と呼びながら、硫黄島に持って行ったのかもしれません。ただただ母の思いを硫黄島につなげている部分が大きいのかもしれません。」
●環境と我慢
そういった思いは、同じ母という立場になって芽生えたものだ。硫黄島に一緒に行った長男は今年、就職した。
「同じくらいの年齢で亡くならざるを得なかった人たちの無念を思うと、それは硫黄島に限らないとは思いますが、今、日本はあまりにも豊かになって、ことさら申し訳なく思ってしまいます」
史子さんは戦後すぐに暮らした河合家でのことも話していた。
「河合の家が農家だったから、物々交換でいろんな人が来はったとか、戦後は裕福な人と貧しかった人との差が激しかったとかいった話なども聞きました。河合の家は、いろんな事情があって、今、住んでいる人がどうしておられるかは分かりませんけど」
話は「母親、妻」一般に広がっていく。
「戦争のために未亡人となって、戦後に一人で子供を育てて苦労された方はいっぱいいらっしゃると思いますし、そのような本も読ませてもらっています。母は経済的にはそんなに苦労してはないと思いますが、やはりそれなりに激動の時代を生きてきたんだと、我が親ながら思います。記憶がとどまっていてくれたら本当によかったんですけどね」
言葉に涙が混じる。そして、そういった環境は夫婦の関係にも大きな影響を及ぼしていた。
「母は、私たちに言うようになったタイミングくらいからしか、自分のことを父(夫)に話していないと思います。夫婦の間では、自分の思いを打ち明けるだとか、夫が妻の思いを聞くなどといったことは、あまりしてなかったと思います。父は昔気質の男ですから。
母としては、もっと言いたかったと思います。でも、家のことを一切、任せられてもいるし、我慢してきたんだと思います。ただ、父は母が置かれてきた境遇については分かっていたと思います」
●それでは、自分たちは何をやってきたのだろうか
渡島から1年が経ち、露わになった思いは他にもある。
陽子さんはドキュメンタリーを見るのが好きだ。特に戦争関連のものがあると見る。それは家庭環境が影響しているという。実家の吉川家ではいつもNHKが流されていたが、結婚して、その状況が変わった。こちらの家では民放が大半だった。その後、長男が小学生になった頃くらいから一人になれる時間ができ、そうすると自然とNHKにチャンネルを合わせていた。すると、そういえばちゃんと見てなかったなと思い、興味をもって見出したのだという。
それは、嫁いで子供が出来、親という立場になってこそ復活した興味だった。ドキュメンタリーを見て、その立場で当時に思いをはせる、そんな時間が増えたのだ。
硫黄島への渡島は、そんな中での出来事だった。兄に誘われ、今さらながら、あの時、行って良かったと思う。兄は、そのうち遺骨収集にも行こうかと言う。息子も「行って良かったし、機会がなければ『追悼録』を読むこともなかった」と言っていた。そういった反応から、自分が今までしてこなかったことに対して考えが及んだのだ。
「戦死した人の血が私に流れていることを、次男、長女にも伝えた方がいいのかなと、気にすることが最近多いんです」
というのも、杉岡家は戦死者を出してはいない。戦争のことには接点がなく興味がないのだ。あえて目を背けているようにさえ見える。夫も義母も、関連する映画や番組などはまず見ない。8月15日の終戦の日にさえ、一度も話題に上らなかった。戦争が身近だった陽子さんにとって、違和感は絶えずあった。しかし、「嫁」という立場で、それを口にすることははばかられた。機会があって夫婦で靖國神社に参拝した時も、終始、夫は気が向かない様子だったし、家族旅行の行程で戦争関連の場所に寄る選択肢はあり得なかった。
振り返ると、小学校の時、家族で行った「回天記念館」の記憶が甦ってくる。「こんなところから出撃していった人がいる」と父が言ったのを覚えている。それは、子供心にもその底に残ったのだ。父と母は戦争遺構に連れていこうとしていた。ドキュメンタリーにしても他の家よりは話題にしていた。
あまりに小さい時に話したり、連れて行ったりしても分からないだろうから、と思ってはいたが、結局、自分たち夫婦はそれをやってこなかったのだ。
「一人で私がNHKのドキュメンタリーを見ていると、『また、あの音楽が流れてるな』、と子供たちが言ってくるので、私が、戦争関連のものを見ているのを分かっているんだとは思ってますけどね」
その音楽とはテーマ音楽である加古隆の「パリは燃えているか」だ。
「何が正解かは分かりませんし、切り口によって見えてくるものは違うと思いますが、戦前も含めて日本が辿ってきた道を、できるだけ知ることは必要だと思います。右か左か、といった硬直した考え方ではなくですね。いろんな考え方を入れなくてはアカンと思います。今、若い人は自分が知りたい情報だけ得るようになってきてますからね」
だからこそ、よけいに今までの来し方を反省している。夫が賛同するかどうかは分からないが、今度は、次男、長女を連れて、硫黄島を再訪できればと思っている。
(続きは1月20日掲載予定)取材・文/伊豆野 誠