連載[第31回]

孫世代の遺族たちのそれぞれの思い

硫黄島に触れた時 連載 第30回
令和8年2月10日

■連載[第30回]
「一人娘」をめぐって。奈良の旧家の末裔たち その15

●史子さんの風景
 陽子さんと賀洋子さんに会ったひと月後、大和郡山市の吉川家で史子さんに会うことができた。前に「母にも会いますか?」と言われてはいたのだが、将広さんに話を聞くため吉川家を訪ねると、「今日は居ますから」と史子さんを紹介されたのだ。
 小雨が降る休日の午後だった。細かい路地を通って辿り着くと、あたりは少し薄暗かった。松井家を訪ねた時に、その立派な門構えに驚き、そのことを賀洋子さんに伝えると、「吉川の方がもっとすごいですよ」と言われたことを覚えていた。その門構えは松井家の方が豪勢だったが、一歩、敷地に入ると、その大きさがなんとなくうかがえる。玄関をあがり廊下の突き当たりの応接間に通された。
 現れた史子さんは小柄で、普段着ながらこざっぱりとして清楚な雰囲気だった。誰かに似ていると思った。髪をショートにしているせいか、それは『追悼録』に載っていた源一さんの幼少時の顔だった。突然のことに心構えはできていなかったが、将広さん同席のもとに話を聞いた。
 史子さんにとって認知症の影響はやはり免れられないものだった。それでも硫黄島へ行ったこと自体は覚えていた。遺族と数名で渡ったという。初めは靖國神社に団体でお参りし、それを契機として硫黄島に行くことになった。誰の斡旋によるかは分からない。おそらく源二だろう。「源二さんは小さい時からずっと親しくしてくれて、何かのお務め(回忌)の折には呼んでくれました」というからだ。
 また、数年前まで、服部家の誰かに誘われて、年に一回、奈良県の護国神社にお参りに行ったという。将広さんも駅まで史子さんを送っていったことがあり、一緒にお参りした。しかし、その時に同行した人が服部家の誰だったか、挨拶はしたものの、当時はさほど興味がなかったので覚えてはいなかった。
『追悼録』についての記憶はなくなっていた。それでも、そこに挟まれていたテレホンカードについてはかすかに残っていた。カードにプリントされていた写真のようなところを船で通って行った気がするという。渡島時の感想を訊いてみた。
「気持ちを言うことは難しいですけど、観光気分ではありません。あんなところまで行って、日本は敗けに来たようなものですし。お墓も何もありませんしね」
 穏やかに淡々と受け答えされていく史子さんだった。

●あんた、一体誰に似たん? お父さん、泣いてはるわ。
「父親(源一)のことは記憶がないんです。おそらく再婚する時に母が処分したのでしょうけど、写真1枚があるだけでしたし。ですから、ほとんど意識なく暮らしていました。母も悔しかったのでしょう、私が聞かないと言いませんでした。
 でも、私の成績のことが問題になると、必ず父親が出てきていました。あんた、一体誰に似たん? お父さん、泣いてはるわって。両親とも優秀だったみたいで、みんなの自慢でしたしね」
 この「あんた誰に似たん?」は、陽子さんにも聞いていたが、この後、笑いも交えて何回も繰り返された。
「母親は、あの時代にしては決して厳しくはなかったんでしょうけど、はっきりした人ではありました。父親のことは思い出すのが辛かったんだろうと思います。言ってみたところでどうにもなるわけではありませんし」
 それでは河合家のことはどうだったのだろう?
「物心ついた時は、もう河合家にいましたし。おじいちゃんと家を継いでいた母の弟が父親代わりでした。叔父の子供たちときょうだいのようにして大きくなり、結婚するまで育ててくれました。見門のおじいちゃんは厳しかったけど、辛いとかそんなことは、私は能天気やから、何も思っていませんでした」
 この「私は能天気やから」も繰り返されたフレーズだ。
「物質的にはみんな貧しい時代でしたからね。けども、河合家は農家で、十分食べれましたし、苦労や不自由というものもありませんでした。ある朝、学校に行く準備をしていたら、食料を分けて欲しいと、大阪の方から、もう本当に行列で皆さんいらっしゃるんですよ。周りは皆、農家ですからね。気の毒に、とにかくコメが欲しいから、衣服と交換して欲しいって。それは、戦後すぐの一番の記憶として残っています」
「ご苦労もあったんでしょうね?」という問いに返ってきた言葉である。
「着るものも不自由でしょ、配給ですし。それも、逆に、精神的には良かったんだろうと思うんです。みんなが不自由で。友達から大阪の土産として飴玉もらって喜んでいましたし。アメリカの兵隊も町でよく見かけました、大阪に行ったら必ず見ましたね。
 厳しかったのは、むしろ学校です。口答えなどとんでもなかったです。教育も時代が変わった、そう思います。最近は保護者の方がうるさいようですしね」
 わずかに緊張されていた様子もほどけて、話は学生時代のことに及んでいった。

●作家にファンレターを出し、『万葉集』が好きだった学生時代
「学生時代は、小説ばかり読んでいました。好きな作家に手紙をだしたりして。返事をいただいたんですよ。捨てずに持っておけばよかったと後悔してます。孫にも自慢できたんですけどね。
 通学時には本を読んでましたし、男のコもみんなそうでした。マンガとかそんなのなかったですし、貸し合いしたりして。小学校の終わりから中学校の時です」
 史子さんの表情が柔和になっていく。
「中学3年の時、澤瀉(おもだか)先生(筆者注:澤瀉久方。国文学者、万葉学者)に授業を受けてたんです。澤瀉先生の本は今も持ってますけど、一流の方ですよね。袴をはいていらっしゃって、初めは変な人、来やはったわ、と言っていたら教授でね。先生だったんです。授業でも『あなた方』とかおっしゃって、話の仕方がきっちりしていて、本当に紳士で素敵な方でした。先生ではなくスターになれば良かったのに、とさえ思いました。『万葉集』の解説を淡々とされて、時には声を出して読まれたりして、どなったりは決してされませんでした。だから『万葉集』は好きで読みました」
 その学生時代を経て、結婚は早かった。長女の賀洋子さんを産んだのは夫である英昭さんが23歳、史子さんが21歳の時だ。結婚後の生活はどうだったのだろう。
「質屋が忙しかったですね。いろんな人が来まして、お客さんがいろんなことを教えてくれる。楽しいというとおかしいですけど、人間勉強させてもらいました。誰とでも話をし、それなりに対応しないといけません。ですけど、変な人だと、あまり話をしません。そうすると次から来なくなりますからね。
 子育てもありましたけど、それほど大変ではありませんでした。裕福な格好もしてませんし。今は社会全体が豊かになったでしょ。昔はそんなことないから、人様に迷惑をかけないこと、それだけは子供たちに言ったと思います。
 自分も再婚していたからでしょうか、父(英太郎)はおおらかな人でしたね。英太郎さんのお母さん・千代さん(祖母)も賢かった。だから、助かりました。店でも、客が帰ってから、客のことは信じてはいけない、って言ってました。その分、英太郎じいさんもしっかりしてましたね。ハイカラなピアノなどもしっかりやってらっしゃいましたけど」
(続きは2月17日掲載予定)取材・文/伊豆野 誠

硫黄島記事一覧

ページ上部へ移動