
■連載[第31回]
「一人娘」をめぐって。奈良の旧家の末裔たち その16
●妹
それでは、源一の母である祖母・栗惠についてはどういう印象をお持ちなのだろう?
「母の伯母になりますが、記憶はありません。木屋源内の店もそうですね。ほんの少ししかいませんでしたし。むしろ桜井駅の改札は覚えてます。そこを出たり入ったりして、駅の構内が遊び場でしたから。昔にしてはしっかり大きく、駅員も何も言わなかったので。あの頃は保育所もなかったので遊んでたんでしょうね」
史子さんの妹のことも聞いてみた。瑳巴子と吉川英太郎との間にできた、史子さんと8歳違いの娘である。
「育児ノイローゼになって離婚して帰ってきたんです。幸い、その子は、お母さんのことも気にせず、いい子に育ってくれたから良かったんですけど。(妹は)頭が良すぎたんでしょうね、自由人で。いろんな人がいて、いろんな生き方があるから、ことさらタッチすることもないかと思ってきました」
過保護に育てられた妹は、大学を出てすぐに結婚した。将広さんが後でこっそり教えてくれたが、家族に挨拶もしないその妹と史子さんは、いがみあって、毎日、ケンカになっていたという。その存在について陽子さんから聞いてはいたが、具体的な事実に驚いた。
「なんでも思い通りになるなんてないし、人のことを悪く言ってはいけないと、それだけは子供の頃から言われたんですけどね。まあ、人間って、環境に左右されてはいけないんでしょうけど、影響は受けますからね」
それは、妹が置かれた「環境」についての話のようだ。母親(瑳巴子)はケンカを止めようとはするものの、そんな娘(妹)に、両親ともども、厳しく言ってきかせるようなことはしなかったのだ。
一方、史子さんは多くの孫たちにも恵まれた。
「本当になんでこんなに人がいっぱいいるのでしょうね。おじいちゃんのところに、用もないのにいっぱいの人が来て、そうしたら、『ちょっと上り(のぼり)ー』と言って、すぐにご飯ですわ。あわてて準備しまして。人が来やすい家でないとダメ、人が来ない家はあかん、って言われて、親戚一同もいっぱいいます。祖母も華奢な人だったんですけど、本当に働いてね。戦争直後は大変だったろうな、と思います。いろいろ教えてもらいました。
母も再婚してね、でも、賢すぎてしっかりしていたから大変だったんじゃないかと思うんです。私はあまり物事を考えずに、人様についていって邪魔にならないように生きてきましたけどね。」
同じような内容が繰り返されながら、いつしか話は問わず語りに進んでいった。

●墓の場所は教えています
「父親(源一)のことも、物は考えようで、全然、記憶がないから幸せなのかもしれません。父にとっては悔しかったでしょうけど。私は、こういう風にぶらんと暮らしてますけど、子供たちをお墓参りにだけは連れて行って、場所は教えているから分かってくれているとは思います。受験の時とか、自分の都合のいい時だけお参りに行ってるようですけど。
戦地で亡くなった人は無念やったろうと思いますけど、戦地のことはそんなには知らないし、人生いろいろですわ。実家(河合家)でも2人戦死してますし(母の弟で叔父にあたる。連載第19回参照)。優秀だったんですけど。とにかく健康第一ですね。
今は贅沢ざんまいで、物をいっぱい捨てて、昔からは信じられないですね。学校でも、教科書もないし、ガリ版刷りで、それも先生の宿直の時に手伝っていて、それ自身は楽しかったですし、採点も手伝ったりしてね、ええかげんなことですよね。
でも、日本人は真面目やから、きっちりした性格で結局よく働くし、しっかりしてるからここまで復興したんでしょうけど」
印象のいいことだけが語られていく。初めて会う人間に対して、愚痴や誰かの悪口など、なかなか口にしないのは当然だろう。唯一、非難めいたことがあったとすれば妹さんのことくらいだった。「ご苦労もおありになったでしょう?」と水を向けても、「能天気ですから」「ええかげんですから」と笑みが漂うのだ。最後には、私にエールさえいただいた。
「暇になったらしようなんて思っていたら何もできないし、やりたいことはすぐにやっておかないと。読みたい本もね。お元気なうちにね、頑張ってください。若い人はこれから日本を支えてもらわないと、大変なお仕事ですね」
史子さんにとって、そのままになっている「やりたいこと」があったということなのだろうか。筆者に関していえば、決して若くはない年齢なのだが御礼を言い、時間もだいぶ経ったので話をきりあげた。
(続きは2月24日掲載予定)取材・文/伊豆野 誠