
■連載[第33回]
「一人娘」をめぐって。奈良の旧家の末裔たち その18
●国のために身を挺すとは?
将広さんは、初めは硫黄島へは一人で行く予定だった。しかし、先述したように仕事の都合で行けなくなった。次に思い立った時には、きょうだいの繋がりが親密になってきていて、誘ってみようかと思った。言わないでいるもの変な気がしたからだ。
きょうだい3人の結束が強まったのも、先に触れたようにここ6~7年のことだ。将広さんは、近くにいるとはいえ両親とは別居しているし、両親も妹や姉が言うことならよく聞く。グループLINEで連絡を取り合うようになった。その仲は「うちの嫁もこの3人は相続で揉めることはないだろうと言う」ほどだ。筆者から見てもそう思う。皮肉なことに「やっぱり母親が少しおかしい」ということで、賀洋子さんが言っていたように、ここでも母親を起点に関係が更新されたのだ。
考えてみれば、吉川家から戦死者は出ていない。唯一、「戦争」に接点があったとすれば『服部源一追悼録 嗚呼 硫黄島』の存在だった。しかし、将広さんにとって、最初にそれを母親に貰った時、興味もなく本棚にしまって忘れていた。それは、賀洋子さんや陽子さんにとっても同じだった。長崎や広島の原爆資料館に行ってはいたものの、将広さんにとっては学校での「平和教育」の覚えもなかった。
先にも少し触れたように、それが40歳代中頃に変わった。仕事が設計や現場の仕事から主に営業になって水曜日が休みになった。その日は夕方にTVを見ながら晩酌するようになった。ある番組で、青山繁晴氏が涙ながらに硫黄島の話をしているのをたまたま見た。そのことも、祖父が硫黄島で亡くなったことが意識にのぼらなければ、ひと時の感慨で終わったかもしれない。
しかし、違った。このことをきっかけに、初めて『追悼録』を読んだ。意識の底で何かが変わった。なぜ、行けないんだろうと思った。当時は母親は遺児だから行けたんだろうと思った。そこで、祖父に会うためには靖國神社に行くしかないと思い、8月15日には、毎年、参拝に行った。青山氏のYouTubeも見て、講演などにも足を運んだ。
そして、姉妹どころか息子や甥っ子までもが『追悼録』を読み渡島した。ここでも史子さんが世代を繋いだと言っていいだろう。
「青山さんの話を聞いた時、戦争の悲惨さも胸を打ちましたが、一番思ったのは、国のために身を挺するとはどういうことか、ということでした。そういう人間が今、どれくらいいるだろうかと。日本のために死ぬというところまでは分かりませんが、おじいさんがそうなっているのなら、俺もそうなってもいい、という気持ちが私には少しはあるんです。うまく表現できませんが、そのことは、家を守るという意識とは違います」
国のために身を挺す。自分が守っていた摺鉢山に星条旗が揚がった時、そこに突進しようとして機銃掃射と十字砲火を受け亡くなった祖父。その時の心情とは一体どういうものなのか。深く考えたことはなかった。少なくとも吉川家に類例はない。硫黄島から帰ってきて、関連書籍も読み始めた将広さん。最初に読んだのは、捕虜となって帰還した秋草鶴次著の『十七歳の硫黄島』(文春新書)だった。いつか遺骨収集にも行きたいと思っている。
●旧家の座敷童
吉川家という旧家の広い空間には、どこかにわずかな「歪み」や「ひずみ」があった。それは、そこに生きてきた人たちの思いの「埋み火」だったように思う。
かつて女性たちは自分たちを取り巻く環境についての言葉を今ほどには持ちえなかった。敗戦から5年弱の歳月が流れた昭和25年(1950)、中央公論社から『この果てに君ある如く』という本が出版されている。これは、雑誌「婦人公論」が、夫を亡くした人たちから短歌と手記を募集し、誌上に掲載したものを本にまとめたものだ。集まった短歌は590人から4200首、手記は373人390篇に及んだ。収載された短歌や手記には今も胸を打つ力がある。
しかし、降りかかった困難や悲しみが切々と訴えられているのみで、なぜそうなってしまったのか、なぜ自分たちがこういう境遇に陥ってしまうのか、探求の端緒さえない。むしろ、事実のみが書かれているだけに、現代においてもその叫びはリアリティを失わない。
むき出しの事実の断片は、鞘(さや)から放たれた抜身(ぬきみ)の凄みを放つままだ。一方で、その感情を解きほぐし、置かれた状況の理不尽さを説明する言葉を持ちえないだけに、悲しみは憤りと相まって蓄積されていく。そういった意のままにならないあやふやな感情が、日常の営みの中にふいと顔を出す。
一方、吉川家では「父親」の話があまり出てこない。しかし、食卓に座るその背中には一定の存在感があったことだろう。家族の話に上らないのは、父親たちがその「淀み」に気づいており、「男性」としてそれを背負っていたからだ。男たちは、その「ひずみ」の背景にうすうす気づきながら、どうすることもできなかった。
家を巣立っていった娘・息子は、育った環境との違いから、その「埋み火」を影として感じるようになっていく。それは妹姉の「この家は民放しか見ない」や「名義を代えないと架空口座になる」というようなことだった。長男にとっては家の不動産について考えるような時だったろう。
そして、その「ひずみ」が、家族という時空間の中で、座敷童のように露わになったのは、皮肉にも史子さんが言葉を失っていく過程においてだった。事実でしか表現できない心情を説明して余りある言葉を探す。そのきっかけとなったのが「硫黄島」だった。
我々がどこかに置き忘れてきた戦争の記憶。しかし、それこそが現代が見てこなかったものを露わにする。
(続きは3月10日掲載予定)取材・文/伊豆野 誠