連載[第45回]

孫世代の遺族たちのそれぞれの思い

硫黄島に触れた時 連載 第45回
令和8年5月26日

■連載[第45回]
新しい「今」を生きるために その6

●マーシャルの戦跡と硫黄島
 戦前においてマーシャル諸島は日本が委任統治を行っており、先の大戦では日米の激戦地となった。そのため、多くのところに旧日本軍の大砲や艦船など、当時の戦跡や遺構が残っていた。
「驚いたのは、お彼岸の時に、日本の大使が、アメリカや他の国の大使や職員などを公邸に招いて、戦没者を慰霊する機会を設けていたことです」
 また、同地の首都には「東太平洋戦没者の碑」があった。これは、東太平洋の諸島及びその海域で戦没した人たちを偲ぶため、昭和59年(1984)に日本政府により建てられたものだった。一方、「西太平洋戦没者の碑」が、このマーシャル諸島から西の方向で、フィリピンの手前にあるパラオ共和国のペリリュー島にあると聞いた。
 ペリリュー島も激戦地となったところで、近年ではマンガ「ペリリュー-楽園のゲルニカ-」(武田一義著/白泉社)が、映画化もされて話題となった。戦後70周年の平成27年(2015)には上皇・上皇后両陛下が慰霊のために訪問されている。同地の碑は昭和60年(1985)の建立だ。ちなみに、アリューシャン列島のアッツ島(アメリカ・アラスカ州)には昭和62年に建てられた「北太平洋戦没者の碑」があり、これより早く、昭和49年(1974)には「中部太平洋戦没者の碑」がサイパン島に、昭和55年(1980)には「南太平洋戦没者の碑」がパプアニューギニアのラバウル市に建てられている。
 こういった戦跡や慰霊碑を、当たり前のように目にするにつけ、日本が歩んできた道に思いが募った。さらには、地図をよく見てみると、東京の羽田空港からずっと南にくだるとサイパン島やグアム島があり、さらにくだるとペリリュー島があって、そこから東にまっすぐ行くとマーシャル諸島があった。そして、東京とサイパン島のちょうど中間地点に硫黄島があった。
 硫黄島は、その戦略的位置から米軍の激烈な攻撃の対象となった。サイパン島を陥落させ、次の標的となったのが硫黄島だった。B‐29長距離爆撃機はサイパン島と東京を往復できたが、その中間地点に補給基地があればより安心で、さらに多くの爆弾を積み込むことができたからだ。
 佐藤さんにとって、硫黄島への意識がクローズアップされた瞬間だった。

●母の死
 そもそも硫黄島で亡くなった兄のことが、佐藤さんの意識にのぼってきたのは、母・みのりの死がきっかけだった。登記を移す際に、戸籍を改めて見て、前から聞いてはいた「兄」のことを再認識することになったのである。佐藤さんが48歳の時だった。
 みのりは、平成10年(1998)に亡くなった。83歳だった。
 ずっと西川町で一人暮らしをしていて、歳をとり、体のあちこちに支障が出てきていた。 時々、大学病院に入院したりして、最後は認知症となり、養護老人ホームで亡くなったという。
「すごい我の強い人というか、しっかりした人で、何事も曲げない人でした。嫁、しかも後妻として佐藤家に入ってきて、お店のことを頑張り、おじいちゃん(舅)に育てられてきたという誇りと信念があったのでしょう。7人の子供たちも育てなくてはならなかったし、厳しい時代を生きてきた人でした」
「デパートメントストア佐藤」は、亡くなる10年ほど前まで開けていた。「昭和」の時代は営業を続けていたという。
「昔ながらの店で、貸し売りをしていました。でも、西川町に裕福な人はだんだんいなくなっていました。それでも、貸し掛けのものは絶対に取り立てるというスタイルで、商売に関してはシビアでしたね。仕入れは、寒河江の実家や叔母(妹)の卸売店を通じて行ってました」
 佐藤家の墓は、母親が歳を重ねるにつれ、掃除などもままならなくなり、西川町から佐藤さんが住む山形市へと既に移していた。実家と店舗は、母親が亡くなってすぐに解体し、後に処分した。雪国では空き家はすぐに痛んで倒壊などの危険を伴うためだった。


 それから、「退職」や「マーシャル諸島でのボランティア」を経て、佐藤さんが硫黄島への渡島を果たしたのは令和5年(2023)のことだった。戻ってきて、そのことを姉たちに報告した。
「島の様子や、見つかっていない遺骨のDNA鑑定などのことも話し、姉たちも安心したようでした。代表して私に行って欲しいと、願っていましたから」
 既に3人の姉が亡くなっていた。硫黄島では月山の麓で湧く水を献水した。地元でペットボトルに詰めて売られているので、それを持って行ったのだ。
「血のつながりはありませんが、兄弟として“大長男”の慰霊に行けて良かったです。兄が男として戦った場所ですからね。昭和生まれのものの区切りとして、心の整理ができました」
 それは、生まれ育った土地とそこに生きた時代への区切りという意味も含むのだろう。姉たちは、その後にさらに2人が亡くなって、令和8年(2026)には一番下の姉が一人残るだけになった。佐藤さんは言う。
「生きてきたのは山形という一地方ですが、いろんなことを見てきました。長い日本の歴史を、肉親の中にも見てきたと思います」
 だからこそ、現状がやるせないという。それは世界情勢しかり、環境問題しかりである。ベルリンの壁が崩壊し東西対立が無くなって30年以上が経つのに、またもやロシアは侵略戦争を始め、原発までもが標的にされている。深刻化する環境危機に関しても、世界の科学者たちが、30年以上も前から議論し構築してきた気候変動枠組み条約からアメリカは脱退した。標高の低いマーシャル諸島では、高潮により、家屋や墓地が流出する事態が続いている。日本でも世界でも、知識の積み重ねはあり、人材が育っているのに、それが十分に活かされているとはいえない。
「これからの時代を、若い人たちが生きていくのかと思うと、本当にやるせなくなります」
(続きは6月2掲載予定)取材・文/伊豆野 誠

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