
■連載[第49回]
茜色の庭先で その3
●父の気持ち
実家に戻って2~3年後、商店のことは祖父と母親に任せ、父親はトラックの販売会社でサラリーマンとして働き始めた。
「我々子供を育てるためひたすら夢中で働いた人ではないかと思います。ぶっ倒れるまで殴られた軍隊での苛烈な体験も聞いたことはありますし、苦労を苦労とは思わなかったのではないでしょうか。私が子供の頃、ひもじい思いをした覚えはありません」
自宅は店舗を兼ねた一軒家だった。
「1960年代前後で、今、思えば日本全体がまだまだ大変だったころです。兄たちが子供の頃は1950年代前半ですから、ひもじい思いもしたり大変だったのではないかと思います」
実際、長兄は東京で鉄鋼関係の商事会社で働きながら短大を卒業している。次兄は、東京で大学を出て建設会社に就職した。
「自分が行けなかったから、おそらく大学には絶対行かせたかったんだと思うんです」
お墓参りは年に3~4回、家族全員で行っていた。その時に、父から叔父についての発言が、度々というほどではなかったが、それなりにあったことを覚えている。
「でも兄たちは、私ほどには関心をもたなかったんでしょうね」
松岡さんは、子供の頃に、父親といろんなことを話していた。
例えば、薪で風呂を沸かすのは多くのところで子供の役目だった。その薪を調達するため、父がトラックを運転して近くの製材所に一緒に行き、端材をもらってきた。そして、暗くなるまで自宅の庭で、薪割りなどの整理をやっていた。そんな時に、軍隊時代にけっこう殴られたという話や、ドンパチというより食う方が大変だったという話も出た。
あるいは、父親はニューギニアに行かされる前は、近衛(このえ)師団として天皇と宮城(きゅうじょう/皇居)の守護に務めていた。徴兵検査で甲種合格となり、近衛師団に選ばれたのは、当時としては確かに名誉のことであり、父親としても大きな出来事だったようだ。
それならばということで、ある日、松岡少年は、父親に尋ねた。「陛下に会ったことなんてないんでしょ?」と。
「すると不謹慎にも、皇太子(小さい時の上皇陛下)は見たよ。普通の子と変わんなかった、という答えが返ってきたんです。偉そうですよね(笑)」
ニューギニアからどのような形で帰ってきたのかなどの話は一切しなかったが、このようなたわいもない話はした。この頃には話せるようになった、という方が正確かもしれない。本当に思い出したくないことは言わなかったようだが、どこかで少しは話したいという気持ちはあったのだろう。だが、兄たちの頃には、生きていくのに精いっぱいで、そんな気持ちの余裕もなかったに違いない。あるいは、叔父への引け目と、戦後という新しい時代においてはなおさら、子育てにも気負いと緊張があったのだろうか。
その証拠とでも言えるような事実が、松岡さんは「女の子」を期待しての子供だったということだ。生活にも少し余裕ができ、跡継ぎの男子二人を育てたという安心感から女の子も欲しいと思ったのだ。だから、歳が離れているし、またも「男の子」だったことに、少しがっかりされたのだという。
父親は、結局、硫黄島には行っていない。皇居にも靖国神社にも行っていたかどうか分からない。ただ、一緒の部隊にいて生きて帰ってきた人たちの集まりには参加していた。
(続きは7月7日掲載予定)取材・文/伊豆野 誠

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