連載[第54回]

孫世代の遺族たちのそれぞれの思い

硫黄島に触れた時 連載 第54回
令和8年8月4日

■連載[第54回]
風の音 その3

●曾祖父・政太郎のこと
 先にも触れたように、身近だった多くの親族は亡くなって、曾祖父に関する記憶は風化していた。祖父は5人きょうだいの末っ子で、その代で存命なのは、祖父の他、すぐ上の姉・喜美さん(85歳)と妻・智子さん(81歳)だけである(系図参照)。
 祖父が生まれた時には曾祖父は硫黄島にいた。祖父にとって曾祖父は「知らないお父さん」だった。祖父のすぐ上の姉にしても、3歳になる前に出征していて、おぼろげな記憶しかなかった。
 家には戦地から届いた手紙などなかった。家族の中で、曾祖父のことを知っているのは、母親(曾祖母)と上3人の姉・兄たちだったが、「あまり聞いたことがなかった」と祖父が言うように、父親のことを話題にするのは辛いことだったのだ。
 その下の世代が植木さんの母・政子さん(56歳)と、その弟の博さん(54歳)、妹の友枝さん(51歳)になるが、2世代も違うし、もともと曾祖父の話は伝わっていなかったのである。
 そんな中、植木さんは、戸籍なども調べ、櫻井政太郎と櫻井家について、祖父母を中心に話を聞いていったのだ。
 櫻井家はもともと茨城県で精肉店を営んでいた。戸籍で遡れるのは、曾祖父の上の代の櫻井幸八郎までである。その長男として、曾祖父・櫻井政太郎は明治39年(1906)に生まれている。7人きょうだいだったようだ。
 政太郎は長男だったが、両親が次男を可愛がっていたため、同郷の中澤うめの●●●と結婚すると、近隣でやはり精肉店を開業した。当時としては珍しく車の運転もでき、器用で行動力のある人間だったという。その車の運転技術によって徴用されたのではないかとの話もあった。
 その徴用に関して、以下のことも親族間で伝えられていた。それは、他所からやってきて商売を成功させた新参者・政太郎へのやっかみによるというものだ。徴用されるように仕向けたのは、「婆様」と呼ばれた老舗の御隠居の妻で、あることないことを言いふらし、果ては関係者にちょっとした送り届けさえした。そうでなければ既に4人の子供がいて、実家を離れているとはいえ櫻井家の総領である政太郎が選ばれるはずはないというのである。実際、2回も候補に挙がりながら徴用を免れていたが、3回目はついに無理だったのだという。それら「婆様」など徴用までの過程の話を、無念そうに櫻井家にもたらしたのは、あたりを取り仕切っていた「区長」のような人だった。全面的には信じがたいが、かといって否定もできないような、そんな話も伝わっていたのだ。

●鳥のモモ焼き2000本
 残された家族の戦後の苦労は大変なものだったと思われる。しかし、具体的なエピソードは伝わっていない。ただ、身籠っていて政太郎の見送りには行けなかった妻のうめの●●●が腎臓を悪くして臥せっていた時期があり、まだ幼かった次男や三男(植木さんの祖父)が米を炊いた。当時は手押しのポンプで水を汲んでおり、冬場はあかぎれが大層ひどくて、泣きながら作業をしていたという。
 そして、母親を中心に家族全員で精肉店を盛り立てていった。結果的に、長男、次男はそれぞれ家業を離れ、家を継いだのが三男の祖父・利男さんである。祖父は、母親うめのの実家に嫁いだ長女(伯祖母)に子供がいなかったため、そこの養子になることも検討されていたが、娘が生まれためその話はなくなった。
 昭和42年(1967)に同郷の智子さんと結婚した祖父・利男さんは夫婦で猛烈に働いた。クリスマスの時など、鶏のモモ焼きを2000本以上受けていたこともあり、朝は5時から夜中の12時過ぎまで働いていたこともあったという。また、総菜など食品全般にまで手を広げて人気店に成長させた。家業を離れていた次兄と共に支店を出して店を発展させようとし、曾祖母・うめのも裏方で尽力したが、そこは、様々な事情によりうまくいかなかったようだ。
 祖父母の間には、先述の長女・政子さんと次男・博さん、次女・友枝さんが生まれた。長男の政利は、生まれてすぐに亡くなった。その「政利」の「政」は曾祖父の「政太郎」から、「利」は祖父の「利男」から採られたものだったという。長女・政子の「政」も曾祖父の「政太郎」に由来する。そして、この政子さんの息子が植木さんである。精肉店は、焼き肉屋「まん平」として次男の博さんが引き継ぎ、今も人気を博している。
 植木さんは、以上のようなエピソードを、主に祖父母から聞き取った。その内容はボイスメモに録音してAIで文字起こしをし、今回の取材のため、改めて整理し直して、パソコンの中にデータとして収められていた。
(続きは8月11日掲載予定)取材・文/伊豆野 誠

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