連載[第37回]

孫世代の遺族たちのそれぞれの思い

硫黄島に触れた時 連載 第37回
令和8年3月31日

■連載[第37回]
「忘れてしまったら、存在さえ無くなってしまう」 その1
大渕美津子さん(昭和42年生まれ、戦没者・大伯父)の場合

●観光気分?
「おばあちゃんが行きたかったところに、おじさんに呼んでもらって向かうんだ! 硫黄島に向けて自衛隊機が動き出した時には、気持ちが高ぶって、そんな思いに満たされていました」
 大渕美津子さん(56歳)にお会いしたのは、(公財)日本文化興隆財団の令和5年の訪島事業においてだった(年齢は当時、以下同)。
「おばあちゃん」とは大渕さんの祖母・大渕きよのことで、「おじさん」とはその兄・北川萬介(まんすけ)のことである。大渕さんにとっては大伯父にあたる。
 祖母・きよが、幼かった大渕さんに対して「おじさんは硫黄島で亡くなった。海軍だよ、海軍のおじさんだよ」と繰り返し言っていたことから出てきた「おじさん」という呼称だった。冒頭の言葉は、島内の医務科壕や摺鉢山などを巡り、自衛隊の施設内で休憩した時に聞いた感想である。
 北川萬介は32歳で硫黄島で戦死した。「海軍上等主計(しゅけい)兵」だった。位牌にはそう書かれていた。「主計」とは、会計や被服、食事などの係りのことだ。戦地に赴く前は、洋服店で仕立てを行っていた。後に、厚生労働省に問い合わせて分かったことだが、昭和17年(1942)に山口県光市にあった光海軍工廠(こうしょう/軍需工場)に工員として採用されることになり、2年後の昭和19年、31歳で臨時招集されていた。結婚もしておらず子供もいなかった。
「お墓に骨はない。石があるだけだよ」
 祖母はそう繰り返していた。そのため、収集された遺骨に対してDNA鑑定が行われていることを知り、渡島前にはその申し込みもしてきた。
 祖母は7人きょうだいの末っ子で、萬介はすぐ上の兄だった。その祖母は平成22年(2010)に94歳で亡くなった。老衰だった。靖國神社には参拝していたが、硫黄島へは行ったことがなかった。
「おばあちゃんは、お兄ちゃんである萬介さんが大好きでした。ですから、祖母と大伯父の写真を持ってきて、おばあちゃんの代わりという感じで来ました。本当は骨を探して持ち帰りたいのですが、せめて魂だけでもと思っています」
 大渕さんが渡島前に話していたことだ。一方、硫黄島での行程をほとんど終えた時、次のような思いも口にされた。
「表現は変ですが、昔は戦場だったところが、今はこんなにきれいになっています。慰霊祭に参加したいと思って来たのですが、こんな観光気分でいいのかとも思ってしまいました。自衛隊の方々に説明を受けながら案内されて回ってきて、すごく有難いし、説明を聞いていたたまれない感じもしました。それでも、行動自体を俯瞰してみると観光と変わらない気がしてしまったんです。そうも感じてしまうのはなぜなのか、理由は分からないんですけど」

●渡島をきっかけに
 この罪悪感といってもいいような感情は渡島前にも漏らされていた。
「大伯父のことは、遠い昔のおばあちゃんのお兄さんの話、というくらいにしか私の心の中にはなかったんです。ところが、急に意識にのぼってきて、ネットで調べたらこの渡島事業に巡り合い、応募したら行けることになりました。硫黄島で慰霊が行われているのは、ニュースなどで知ってましたが、行けるのは特別の人だという認識でした。私なんかより、もっと真剣に硫黄島のことに取り組んでいらっしゃる方はたくさんいらっしゃると思います。そう思うと申し訳ない気もしているんです」
 後日、改めて話を聞くことをお願いした。とはいえ、諸事情から、再びお会いできたのは渡島から2年が過ぎようとした頃だった。大渕さんは、神奈川県にお住まいである。ご自宅の沿線の、タワーマンションが立ち並ぶことで有名な武蔵小杉の喫茶店でお会いした。大渕さんは落ち着いた雰囲気で、硫黄島での印象と変わってはいなかった。
 硫黄島の日差しを思い起こさせるような暑い夏の日にも関わらず、休日ということでどこも人で一杯だった。喧噪の中、話を聞いていくと、その罪悪感ともいえるような感情には、渡島をきっかけにクローズアップされた「家系」に関連があった。

●「時代劇に出てくるような話」
 昭和42年(1967)、父・清美(きよみ)と母・早苗の間に長女として生まれた大渕さんは、埼玉県の川口市で育った。2人の弟がいた。さらに、祖父の亥三郎(いさぶろう)、祖母のきよと共に7人で暮らしていた。家は亥三郎以来の板金業を営んでいた。
「一般的な昭和の家という感じでした。1番はおじいちゃんで、2番がおとうさん、今、思うと、母は大変だったと思います。祖父や祖母に気を使っていました」
 大渕さんにとって、父と母と出かけたことより、祖父と祖母との記憶が際立っているという。初孫ということで可愛がられたのかもしれない。祖父には将棋も教わっていた。そんな中、繰り返し聞かされていたのが、きよの兄である北川萬介のことだった。
「萬ちゃん、萬ちゃんって言って、日常会話として聞かされていました。だから、むしろ忘れていることも多いと思います。話は萬ちゃん以外にも及んで、焼夷弾が落とされて、夜なのに昼のように明るくなったことなどはよく覚えています。関東大震災も経験していますから、その時の話もよく聞かせてもらいました」
 きよの実家である北川家は、東京市本所(ほんじょ)区(現在の墨田区南部)で呉服商を営んでいた。蔵がいくつもあるほど繁盛していたという。しかし、他家の保証人となって債務を背負い、きよが子供の頃に倒産した。きよは子守りなどの奉公に出ることになった。実家に帰ってくると、萬介以外の兄たちが待っていてカネを無心された。給金の日に奉公先にまで取りに来ることさえあったという。きよの母親・みつについては、きよが子供の頃に亡くなり記憶さえなかった。末っ子であった祖母にとって、すぐ上の兄である優しい萬介だけが頼りだったのだろう。きょうだいたちはそれぞれに生きる場所を探してバラバラになった。そんな「時代劇に出てくるような話」も聞かされた(系図1参照)。

 また、祖父の亥三郎にも軍隊経験があった。召集によりインドネシアのスマトラ島に行ったと、やはり、きよから聞いた。しかし、亥三郎に聞いても何も教えてくれなかった。ある時、「何やってたの?」と聞くと、「ごはん番」と返ってきたことだけは覚えている。その明治44年(1911)生まれの亥三郎は、昭和55年(1980)に69歳で亡くなった。脳梗塞だった。大渕さんが中学校2年生の時である。ちなみに大渕家は、亥三郎の何代か前に栃木から東京に出てきたのだという。
(続きは4月7日掲載予定)取材・文/伊豆野 誠

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