連載[第34回]

孫世代の遺族たちのそれぞれの思い

硫黄島に触れた時 連載 第34回
令和8年3月10日

■連載[第34回]
「一人娘」をめぐって。奈良の旧家の末裔たち その19

●「木のまち」桜井
 さて、それでは木材商の「木源」こと木屋源内はどうなったのだろうか。今まで度々触れてきたように、木源は桜井駅の北側にあった。
 桜井といえば大神(おおみわ)神社と三輪そうめんが有名だ。大神神社は記紀神話にも登場する古い神社で、日本最古の「山辺(やまのべ)の道」もそこを通っている。一方、同地は「木のまち」としての顔もあった。
 桜井木材協同組合のHPによれば、端緒は大阪鉄道と奈良鉄道(共に現在のJR)の桜井までの延伸だった。明治26年(1893)と同31年(1898)のことだ。いかだを使って和歌山へと川を流していた紀伊山地の木材が、同地にも運ばれるようになった。ダムの建設などにより、河川は木材運搬に適さなくなりつつあったのだ。
 木材の運搬手段は、さらに進歩していく。業者は駅周辺にと進出し、大正時代には出荷、磨き、廃材加工など関連業態が集まり、一大木材市場が形成された。昭和41年(1966)当時、市内の組合員の製材業者は約220軒、その他の木材関連業者を含めると500軒に上ったという。関係者が言う。
「木源さんいうたら老舗中の老舗ですわ。でも、20年くらい前に倒産されました。大きいところでしたからね、設備投資が負担になったんです。今でも木材業界の環境は厳しいですが、昭和30年代までは良かったんです。それが、外材が入りだし昭和40年代からハウスメーカーが進出してきて、吉野山系や伊賀山系を背後に控える桜井の高級材はあかんようになった。特に狂乱物価となったオイルショック後の昭和50年代以降は厳しくなったんですわ」
 木源は平成8年(1996)に倒産していた。伝手をたどって、最後の社長・服部源太良(げんたろう)さん(75歳)に連絡を取ることができた。源一の弟・源二の長男である。
「そうですか、史子さんの息子さんたちが硫黄島に行かれたんですか。伯父の源一も本当に喜んでいると思います。良かったです。息子さんは知ってますよ、会ったことがあります」
 突然の電話にも関わらず、硫黄島のことを話すと、電話口から嬉しそうな声が返ってきた。コロナ禍が収束した令和6年の初夏のことだった。

●木材不況の意外な理由と倒産の原因
 源太良さんは、京都にお住まいだった。筆者の宿泊先にまでクルマで迎えに来ていただいた。大柄で温厚そうな雰囲気が漂っている。
 木源が倒産する2年前には父親の源二さんが亡くなっていた。平成6年(1994)11月11日のことという。先に触れたように『追悼録』を編集・刊行したのは源二だった。その「あとがき」には、「肺線維症と診断され、常時、在宅で酸素吸入器のお世話になっており」、「命のある間にどうしても兄源一の追悼録を記述しておきたいと資料収集に努めてきた」とあった。源太良さんによれば、手術後は人工肛門も装着していたという。源一の五十回忌である平成6年の2月22日に『追悼録』を出版し「ホッとした」9か月足らずのことだった。念願かなっての往生だったようだ。
 一方、源二の死の3年前に、源太良さんは八代目の「当主」に就いていた。慣れない社長という業務に大忙しで、父親の病状を深く顧みることができなかった。既に会社の状態も良くはなかった。ただ、父親が『追悼録』作りに邁進していたのは知っていた。
「それまで、ずっとやろうと思っていたんでしょう。僕に会社を任せて、思う存分、取り組むことができたんでしょうね」
 木源は、最新の機材をいち早く導入し、大量生産を行い、吉野のみならず各地の木材を全国に流通させていた。それが倒産に至ったのは複数の要因があった。一番大きかったのは、構造的に木材が使われなくなっていったことという。電柱や鉄道の枕木しかり、ひいては造船やダム建設なども減少し、その現場における大規模な足場での使用がなくなっていった。吉野といえば高級材で、丁寧に育てるため間伐材が多く出た。それをほとんどそのまま大量に供給していたのだ。大手ゼネコンとの付き合いもなくなっていった。
 ところが会社は大きくなり過ぎていた。加えて、「真っすぐで、人柄のいい親父の気前のよさ」が徒(あだ)になった。明るくほがらかで歌もうまかった。頼まれれば、使用価値の低い木材を買い、取引を譲ることさえ多かった。ある種、利用され、市会議員にもなった。
 源二には、軍人であった自分が死なず、次男にも関わらず家業を継いだ負い目があった。「武士の商法」という引け目もあった。
「源一おじさんのことがあったから、いろんなことに申し訳ないという気持ちがあって、本当に一生懸命やってきたんやと思うんです。親父も辛かったと思います」
 源二が亡くなった時には2000人にも及ぶ弔問があったという。香典返しなどその御礼は、源太良さんと妻、妹の3人で行い、済ませるまでに2年ほどもかかった。

●「源太良」という名前の意味
 そして、源二が亡くなって2年後に会社は倒産する。源太良さんが47歳の時だ。
 木源の取引は東京・大阪のみならず主要関連都市に及び金融機関も8つが関係していた。会社は製材所など1000坪規模で、家屋敷も同じ1000坪ほどがあった。会社の清算と家の清算、すべてに5年という歳月がかかり自己破産した。
 管財人がいたとはいえ、交渉のすべてに関わった。できるだけいい形で幕引きを図りたかったからだ。「親父も会社の状態が悪いことは分かっていた」と源太良さんは言う。それでも、「親父に悪いから、伯父さんにも悪いから」出来ることはすべてやった。ただ、「親父がいい人で、その恩義に預かった人が多かった」から、楽ではないものの交渉は概ねやりやすかったという。
 倒産してからは、清算中も職を見つけて必死で働き、1女2男を奥様と育て上げた。
 源太良さんが生まれたのは昭和24年5月だ。戦後4年目のことである。「源太良」とは、源一が最後の徴兵時に改名した名前である。源一が残していった遺書や硫黄島からの手紙には、「源太良」と明記されていた。源二がどういう思いでその名前を自分の子供に命名したのかは分からない。
 源太良さんは、小学・中学・高校と桜井で過ごし、大学は大阪の関西学院大学に通った。それぞれ2歳違いの姉と妹がいたが、父親は源太良さんには甘かったという。大学時代も1、2年で卒業に必要な単位はほとんど取り、「就職のことは心配なかった」ので、3、4年は適当に過ごしていた。しかし、実家である木源に就職すると環境は激変した。
 源二の陸軍士官学校時代の同期が鹿児島で木材会社をやっていて、そこに修行に出ることになったのだ。ニュージーランドの松材を扱い「日本で一番きつい工場」と言われ、1日も休みがなかった。大量かつ迅速に木材を出荷しなければならないため生傷も絶えず、今でも足にはその時の傷跡が多く残っている。宅地建物取引士の資格もそこで取得した。そこに研修に来る人は概ね半年で帰っていったが、源太良さんは2年滞在した。
 そして、奈良に戻って結婚した。25歳の時だった。相手はやはり源二の士官学校時代の仲間の娘さんだった。一つ年上の久子さんである。源二は、年に1回、士官学校の同窓会で、同期などと会っていたのだ。その仲間は福岡に住んでいて、源太良さんは鹿児島時代にお見合いに出かけて行った。
 ちなみに服部家には全9条からなる「家訓」があった(連載第21回参照)。父親の源二は正月に家族の前で読み上げていたが、源太良さんはやらなかった。その余裕もなかった。
(続きは3月17日掲載予定)取材・文/伊豆野 誠

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