連載[第47回]

孫世代の遺族たちのそれぞれの思い

硫黄島に触れた時 連載 第47回
令和8年6月16日

■連載[第47回]
茜色の庭先で その1
松岡英夫さん(昭和32年生まれ、戦没者・叔父)の場合

●叔父と父親
 松岡英夫さん(67歳)にお会いしたのは令和6年の硫黄島訪島事業においてだった(年齢は当時。以下同)。
 この年の訪島は、当初8月の予定が、10月に延期されて実現した。水不足に陥ったためだ。駐屯する約350人の自衛隊員の半数が本土に戻された。硫黄島は今も、3か月も雨が降らないと生活用水に困ることになる。飲料水などは本土から運ばれてくるものを使っているが、貯水している雨水の蒸発も影響し、シャワーは週一回ほどに制限されるという。
 島に降り立つと、8月よりはいくぶん涼しく感じられた。しかし、それも束の間、日差しはやはりきつい。風は涼しいものの、日の下ではすぐに汗が滲んでくる。一方で、海上遠くにぽっこりとシルエットを浮かび上がらせた南硫黄島が見える。眺望は今の季節の方がいいようだ。
 そんな繰り延べの末に実現した渡島だったが、18歳から67歳まで、例年以上に年齢の幅があるご遺族の参加となった。コロナ禍が落ち着いたという状況もあったのかもしれない。そのうちのお一人が最年長の松岡さんだった。松岡さんは、叔父の松岡義郎(よしお)を硫黄島で亡くした。大正9年(1920)生まれの25歳だった。父・利雄の3歳違いの弟にあたる。
 父親も召集された。しかし、ニューギニアの戦地をなんとか生き延び終戦を迎えた。帰国後はマラリアを発症して苦しんだが、母・壽子(ひさこ)と結婚し3人の男子を儲けた。その三男が松岡さんにあたる。
 その父親も平成4年(1992)に亡くなった。松岡さんは父親が折につけ「弟はかわいそうなことをした」と言っていたのが耳から離れなかった。叔父の遺骨は当然ながらない。DNA鑑定ができることを知り、令和4年に申請したが該当はなかった。その頃、この訪島事業のことも知って、今回の参加となったのだ。
「この写真一枚しか残ってないんですよ」
 松岡さんは、ピンボケの写真を取り出して言う。叔父のことは戸籍の記載で知るのみだ。亡くなった日も昭和20年3月17日とされており、硫黄島が玉砕したとされる日付である。陸軍だったということしか分からない。軍歴はこれから調べようと思っている。
「今回は父の代わりというか、そんな気持ちでお参りできればと思っています」
 話すと穏やかな笑みが顔に浮かぶ。それだけに、黒いズボンと白い長袖のシャツ姿で慰霊碑に神妙に頭を垂れる姿が印象的だった。戦跡も自衛隊員の説明を聞きながら黙々と廻られていた。その胸中にはどんな思いが去来していたのだろうか。

●罪悪感
 松岡さんは司法書士だ。その事務所を訪ねたのは渡島から1年半ほどが経過した令和8年の春のことだった。場所は埼玉県内の主要駅の一つから歩いて数分のところにあった。事務所に着くと、あのにこやかな笑顔に迎えられた。仕事柄だろうか、家族の系図と戸籍のコピーを用意して待っていただいていた。事務所にはひんぱんに電話がかかってきている。まずは、渡島時の感想から話を聞いた。
「父の代わりに、やっと慰霊を果たせたという思いでいっぱいでした。父も行きたかったんだろうと思うんです。ただ、行けるとは思っていなかったようですし、私もそうでした」
 松岡さんには、歳の離れた2人の兄がいる。行くことを事前に報告すると驚いていた。
「現地を見て、自衛隊の方にはいろんなところを案内してもらいました。天気もよく海もきれいでした。ですから、あんなところで血みどろになって戦っていたんだなと思うと、そのギャップに改めてむごいなと、しみじみ思いました。もちろん経験はないんですけど、戦争というものの残酷さに、なんとも言えないものを感じました」
 帰ってきて、改めて墓にお参りした。
「硫黄島では、亡くなった方々全員に慰霊碑の前で手を合わせたわけですが、心の中ではやはり叔父に挨拶して話しかけ、一番にお祈りしていました。そんなことも含めて報告しました」
 墓碑には「昭和20年3月17日没 於硫黄島 陸軍兵長」という叔父・義郎について刻まれた見慣れた文字があった。今では両親も眠る墓である。硫黄島から石の一つでも持って帰りたかった。しかし、持ち出しは禁止と言われて断念した。骨の一片もなければ遺髪もない。残っているのは、おそらく集団写真の一部を拡大した例のピンボケの写真1枚だけで、偲ぶよすがもないのだ。
「やはり父が亡くなる前にもっと聞いておけば良かったと思いました。自分の従軍のことについても、食いもんが大変だったとか、帰ってからのマラリアがきつかったことくらいしか話さなかったんですが、叔父のことをしゃべる時には雰囲気が違ったんですよね」
 父親が従軍したニューギニアの戦地は餓死者さえ多く、加えてマラリアにも悩まされた。
「よく戦地から帰還された方の話を本で読んだりすると、自分だけ生き残ったことへの罪悪感を強く持たれる人が多いですよね。『義郎はかわいそうだった』という言葉の背後には、そういう意識が強くあったのではないかと思うんです。叔父は結婚も、ましてや子供も持つことができなかったわけですが、父はできたわけですからね」
 弟に対する父親のその言葉を聞いたのは、松岡さんが中・高校生くらいの時で、その時はそのようには感じていなかった。しかし、ことあるごとにこの言葉を思い出す度、そういう思いが募っていったのだという。
 加えて、戸籍を見ると、松岡家の本籍は栃木県の佐野だったが、次男の叔父は20歳の時に、なぜか名古屋に分家に出されていた。祖父より前の時代には養子縁組が行われていて、その中に本籍が愛知県の者がいるのでその関係かもしれない。いずれにしろ、父親が、戦死した弟に対して複雑な感情を持っていたことだけは確かだった。
(続きは6月23日掲載予定)取材・文/伊豆野 誠

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