連載[第40回]

孫世代の遺族たちのそれぞれの思い

硫黄島に触れた時 連載 第40回
令和8年4月21日

■連載[第40回]
新しい「今」を生きるために その1
佐藤芳春(よしはる)さん(昭和25年生まれ、戦没者・兄)の場合

●複雑な関係
 佐藤芳春さん(73歳)にお会いしたのは令和5年の硫黄島訪島事業においてだった(年齢は当時、以下同)。佐藤さんは兄・正(まさし)を硫黄島で亡くした。享年17だった。
 とはいえ、佐藤さんとその兄に血のつながりはない。戸籍上の関係があるだけで、その事情は複雑だった。
「兄の母が亡くなって、そこに後妻が入り、今度は兄の父も亡くなった。そこに後夫(ごふ)として入ったのが私の実の父なんです」(系図1参照)

 佐藤さんには、6人の姉がいる。芳春さんが生まれた時には、既に兄・正は亡くなっていた。その兄のすぐ下で、芳春さんにとって一番上の姉との間には20歳の開きがある。伴侶を亡くした親たちが再婚を繰り返して子を成したために、実の父母が違う姉妹が同じ屋根の下で寝食を共にし、結婚するまでは芳春さんの親のもとで暮らした。佐藤さんは言う。
「親が違っても、きょうだいはきょうだいで、姉は姉と位置付けられていて、尊敬の念も親しみもあり、当然のこととして暮らしてきました」
 筆者は、この関係を、口頭で聞いただけでは理解できず、それを見越してか、佐藤さんが持参されていた系図を見てはじめて理解できた。
「あの頃の時代の家族の作り方は、今から考えると、ある種、めちゃくちゃですよね。その時々の巡り合わせでできた関係と形でできている。本来、家を継ぐはずの長男は硫黄島で亡くなった兄貴ですが、結果的に私ということになったんです」
 兄・正と佐藤さんの間には6人の女子がいたわけだが、もし、この間に、男子が生まれていたら、佐藤家に後妻・後夫の存在はなかったかもしれないし、芳春さんも生まれていなかったかもしれない。
 しかも、佐藤さんの実の父親は、戦前は満州に行っていて、終戦時にソ連軍の捕虜となり、シベリア抑留を経て帰国し、後夫に入ったというのだ。
「姉たちも歳をとり、存命しているのは半分の3人になりました。ある時から、代表で硫黄島に行ってこいよ、と言われていて、私自身、気になっていたし、自分の年齢的なことも考えて、今回、参加させてもらったんです」

●満州、シベリア、硫黄島
 兄・正のことは、上の3人の姉たちには記憶があるが、下3人にはなかった。戦地からの便りなどが届いたことは無く、戦死報告が来ただけだった。墓はあるが骨はなく、戻ってきたものは何もなかったという。
 佐藤さんも、硫黄島で戦死した兄のことを聞いてはいた。しかし、気になりだしたのは、ある程度、生活も落ち着いた50歳前後になってからのことだった。その時の兄の手掛かりは、仏壇にあった1枚の写真だけだった。画像は不鮮明なものになってはいたが、改めて見ると恰幅のいい人で、佐藤家にこんな人がいたんだと驚いた。その帽章から陸軍と分かった。おそらく召集によるという。

 硫黄島では、慰霊碑に線香を手向け、長いことしゃがみこみながら一心に祈りを捧げる佐藤さんの姿が印象的だった。
「帰ったら、こういうところだったと姉たちに話します。兄が亡くなったところに誰もお参りに行ってなくて、喉に骨が引っ掛かったような状態でした。姉たちも少しは気が楽になるのではと思っています。
 なんといっても、壕の中の暑さには驚かされました。南の島の常夏の暑さや、水の大切さ、残された旧日本軍の戦跡などは、マーシャルでも経験していましたが、地熱の暑さは実感しないと分かりません。硫黄島は、今も活動を続ける火山の島ですからね」
 佐藤さんは山形県の出身だ。県庁の職員として長く環境行政に携わってきた佐藤さんは、退職後、「海外協力隊」に参加し太平洋諸島のマーシャルにボランティアに行った。そのことに基づく感想だった。
「徴兵で戦場に行った兄は、にわか仕込みの17歳の一兵卒だったと思います。いつ終わるか分からない毎日だったでしょう。よく耐えたなって思います。
 戦況悪化の中、徴兵年齢が17歳以上に引き下げられたための召集だったのでしょう。徴兵の上限も40歳から45歳に引き上げられ、父親にも可能性が大きくなった中、兄だけの召集でした。そういう時代だったと言ってしまえばそれまでですが、むごい青春だったなって。でも、兄が戦死してなかったら、私は生まれてなかったでしょうしね」
 兄の「硫黄島」と、父親の「満州」「シベリア」……そして、特異な家庭環境での佐藤さんの人生とはどういうものだったのだろうか。
(続きは4月28日掲載予定)取材・文/伊豆野 誠

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