
■連載[第43回]
新しい「今」を生きるために その4
●父の思い出
佐藤さんは、昭和25年(1950)に西川町で生まれた。そのことは先にも触れた通りだ。街道筋として栄えた月山の麓の「自然がいっぱい」の土地だった。
昭和25年といえば、第2次ベビーブームの翌年である。現在では過疎化が進み、子供もほとんどいなくなってしまったが、佐藤さんが、当時、住んでいた50軒ほどの小さな集落には同級生が14人いた。小学校は各地区に複数あり、中学生になると同級生は120人ほどもいた。
待ち望まれていた男子ということで期待されていたのだろう。当時は珍しかった幼稚園にまで通わせてもらったし、そろばんと習字の塾にも行った。姉たちにも可愛がられた。
家業の「デパートメントストア佐藤」は、日用品ならなんでも揃っていて、近隣に配達もしていた。子供の頃の冬の楽しみは、父親と一緒に行く山手の方への酒の配達だった。このあたりは全国でも有数の豪雪地帯で、町の中心部でも2メートルほどの雪が積もった。酒と共にスキーを背負って行き、帰りはスキーで家路についたのである。
父・千春の評判もよく聞いた。結婚した時から颯爽と馬に乗っていて、何でもできる人、といったものだった。獣医をやっていた関係からか、牛馬の仲介をする馬喰(ばくろう)などとも付き合いがあり、広く世間を知っている人間と思われていたようだ。

しかし、その父は「シベリア抑留などの疲れが出たためか」、佐藤さんが「中学校に上がる頃」、先述のように倒れてしまう。それが昭和40年(1965)だとすると、父親が59歳の時であった。
それまでは人も使って商売をしていたが、ここから生活が、一層厳しくなっていく。日本全体の産業構造が変わっていき、この近辺が徐々に衰退していくのとも軌を一にしていた。 なにしろ、それまで、佐藤さんの姉たちのほとんどは、山形市内の高校に通っていた。私立に通った姉もいた。それは、帰宅時に、山形駅近辺の仕入れ先から、お菓子などの一斗缶(いっとかん/一斗は約18リットル)を背負って運んでくるという役割を担っていたものではあったが、「私だけが貧乏くじを引いた」というように、佐藤さんのすぐ上の姉だけは地元の高校、それも本校は隣の市にあった分校に通ったのだ。
せめてもの救いは、6人の姉たちのうち4人がこの頃には嫁いでおり、その分の食い扶持が減っていたということだったといえるかもしれない。
●通学だけで6時間
それでも佐藤さんは、山形市の公立高校に進学することになった。
受験勉強中も、父親からは馬の世話を命じられた。自分ではままならなくなって、「他には女しかおらず、芳春(佐藤さん)の仕事は馬を死なせないこと」と言われ続けたからだった。
高校に入学してからは、西川町から山形市へと通うのが大変だった。私鉄の「三山(さんざん)電車」と旧国鉄の2本の電車を乗り継いで山形駅へと向かうためには、毎朝5時過ぎの電車に乗らなければならなかった。西川町の最寄り駅まで歩くのにも40分くらいかかるので、家を出るのは4時半前だった。そして、7時くらいに山形駅に到着し、高校まで歩いた。毎日ほぼ6時間の往復である。しかも、西川町は冬は雪が積もるし、山形市は夏の暑さが有名である。通うのに精一杯で、落ち着いて勉強する時間などなかったし、電車賃もばかにならなかった。ましてや下宿などできなかった。
1年が過ぎ、限界も近づいてきた頃、佐藤さんは一計を案じた。同高校には夜間部があり、そのための寮があったのだ。風呂焚きをするから、そこに泊めて欲しいと頼み込むと、破格の賃料での入寮が認められたのである。
「グレる暇なんてありません。置かれた環境で一生懸命やるしかありませんでした」
努力のかいあって、東北大学理学部に入学した。仕送りは月1万円あるかないかだったが、それは仕方がないことだった。中学の頃から家の確定申告をやらされていたから、家庭の内情は身に染みて分かっていた。硫黄島で亡くなった兄の遺族年金が計算できる定期収入というほどにさえなっていたのだ。奨学金や授業料免除などを利用し、家庭教師や飲食店などでのアルバイトでしのいだ。時には、結婚していた姉たちに小遣いを無心した。
そして山形県庁へと入庁した。それから5年ほどが経とうとしていた昭和52年(1977)に、父・千春が亡くなった。70歳だった。口調はあくまで明るかったが、どこかしみじみと佐藤さんは言う。
「馬は本当に親父が大事にしてきていたんだな、という思いがありました。満州にも獣医として渡ってますからね。それに、兵隊として行っていたのならまだしも、最後は戦争に巻き込まれてしまって、妻と子とも別れざるを得なかったわけでしょう。苦労しましたよね。どういう気持ちで佐藤家に入ったのかも分かりません。
それでも、こういう言い方はいけないんでしょうけど、やっと亡くなってくれた、と思いました。倒れて10年以上が経っていて、言ってみれば佐藤家のお荷物になっていましたし」
父親が亡くなって、間に入る人があり結婚した。
「それまでは結婚など考える余裕さえありませんでした。家に寝たきりの人がいたわけですから」
(続きは5月19掲載予定)取材・文/伊豆野 誠

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