連載[第55回]

孫世代の遺族たちのそれぞれの思い

硫黄島に触れた時 連載 第55回
令和8年8月11日

■連載[第55回]
風の音 その4

●防衛大学
 ここで植木さんの生い立ちを遡ってみたい。
 植木さんは平成8年(1996)に茨城県で生まれ、つくば市で育った。夫婦共稼ぎの家で、あたりにはのどかな田園風景が広がっていた。弟がいるが、9歳も違うため、長らく一人っ子状態だった。
 子供時代は「ポケモン」といった家庭用ゲームの全盛期だったが、あまり得意ではなかった。特に戦闘ものは苦手だった。むしろ、JAXA(宇宙航空研究開発機構)の筑波宇宙センターが近くにあり、学園都市という土地柄から、宇宙飛行士に憧れ望遠鏡で星を見たり、科学の夢にどっぷり浸かった毎日を過ごした。
 中学では野球部に所属した。しかし、積極的だったわけではない。小学生の頃から、母親が習わせ事に熱心で、スポーツもサッカー、柔道、野球とやっており、部活動への参加は必須だったので、親しい友達もいて選んだ。むしろ、会長を務めるなど、生徒会の活動に積極的に関わった。成績も良く、教師の勧めもあって高校は県下有数の進学校に入学した。
 だが、通学が大変だった。バスを乗り換え2時間半もかかり、朝6時前には家を出て、車内で眠るような3年間だった。当然、毎日の参加が求められるような部活には参加できず、比較的、ゆるやかだった山岳部に所属した。それでも、連休や夏休みには日本アルプスなど3000メートル級の山々に登り、その趣味は今も続いている。
 その後、防衛大学校を受験して合格した。理由は、3学年で硫黄島研修が行われるから、という「邪(よこしま)なもの」だった。だからか入学して1週間で音を上げた。小隊ごとに上級生と共同生活を送る全寮制で、その厳しい上下関係に耐えられなかったのだ。もともと親からは、「向いていない」と反対されていた。しかし、無理だと言われると、一層行きたくなった。「自分は甘かった」と反省し、退学。1年間、浪人させてもらった。
 結果、獨協大学の経済学部に入学した。後に指導教授となる恩師から会計学を教わり、会計士になるための勉強こそ4年間を費やす道と定めて励んだ。防大も退学していて親には申し訳なく、大学時代に遊ぶという選択肢は頭になかった。とはいえ、サークルは天文研究会に所属し、その代表も務めた。だが、公認会計士の1次試験は受かったものの、2次試験がうまくいかず、大学卒業後、1年間の資格受験浪人もしたが、その道は断念した。
 しかし、簿記1級は取得していたため、都内の会計事務所に就職。その後、大手監査法人に務めていた大学のゼミの友人からの募集の知らせを受け、会計そのものではなく、「IT監査」の枠で入社した。現在は主に「会計監査としてのIT監査や内部統制構築支援」などに携わっている。

●胸騒ぎ
 それにしても、島での研修があるという理由で防衛大学校を志望するなど、植木さんにとって硫黄島への意識は強い。先述のように獨協大学時代には、硫黄島での遺骨収集にも参加しようとした。その時には、「社会人になるため今は勉強しなさい」と祖母に諭され断念したが、本人自身「硫黄島への意識はずっとどこかにあった」と言うほどだった。
 理由を聞くと「自分でもよく分からないし不思議なんですが」と、しばらく考えた後に「幼い頃から世話になってきた祖父母に喜んでもらいたいという思いが、根底にはあると感じます」という答えが返ってきた。さらに「調べたりまとめたりすることが好きだし、それによって祖父母が喜んでくれるのであれば、できるところまでやってみたい、という気持ちがあった」と言う。
 植木さんは、小学校5年生の時に、諸事情からつくば市の東隣の石岡市に引っ越した。そこは母親の実家がある市でもあった。小さい時から、事あるごとに母の実家である櫻井家に連れていかれていたが、その祖父母はさらに身近になっていった。
 先述のように、植木さんにとって硫黄島への意識の原点となったのは、仏壇に置いてあった石と小瓶という不思議な光景だった。それに関して祖父母は、「小さい頃から、よく硫黄島の島とうがらしの話などしてくれた」のである。
 一方、祖父母にとっては長い間、孫は植木さんただ一人だった。植木さんが生まれて9年後に、弟や従弟が生まれるまで「その愛情を一心に受け」、曾祖父を知らない祖父は「父親に何かをしてもらった経験がない」といったことまで話してくれた。むしろ孫だからこそ言えたのかもしれないが、その時の姿は今も心に残っている。
 そして、祖父母の家の近くに引っ越した時に公開され、話題になったのがクリント・イーストウッド監督による映画「父親たちの星条旗」と「硫黄島からの手紙」だった。
 公開順にどちらも見た。ちなみに「父親たちの星条旗」はアメリカ海兵隊の視点から描かれた硫黄島の戦いを巡る話で、「硫黄島からの手紙」は日本軍側によるものである。
「なぜアメリカの有名な監督が、数ある戦地の中で硫黄島を取り上げたのか。名だたる俳優も出ていて、硫黄島って特別なのかって、子供ながらに思ったんですよね。そうすると、その特別の戦地で亡くなった人が自分の祖先にいるんだ、もっと調べたいと思ったんです」
 植木少年にとっては、興奮して胸騒ぎがする出来事だったのだろう。田舎の母親の実家にあった得体のしれないものが、なんだか大きなものになった気がした。そのことを僕は知っているんだ、と言いたくなった。いつも可愛がってくれる祖父と祖母が大切に話していた「硫黄島」が脚光を浴びている、そんな気がしたのである。

●故郷の歌
 そして、本屋で単行本『散るぞ悲しき 硫黄島指揮官・栗林忠道』(梯久美子著)を見つけた。その本の帯に、主演の渡辺謙がこれを読んで撮影に臨んだことが書いてあったのだ。
「じゃあ、これを読まなきゃ、あの映画のことは分からないな、と思ったんです」
 祖母におねだりすると、喜んで買ってくれた。さっそく読んだ。難しかったから学校の読書の時間なども利用して何回も読んだ。
「このことが硫黄島に関する最初の経験でした」と植木さんは言う。
「散るぞ悲しき」という本のタイトルに込められた意味も分かった。それは、栗林忠道が最後の総攻撃を告げる電文を大本営に送った時に付けた辞世の句の一節であり、後世まで決して発表されることがなかったものだ。大本営としては、玉砕に際して「悲しき」とは発表できず「口惜し」と改変していたのである。同時に、硫黄島の地下にはまだおびただしい数のご遺体がそのままになっている事実を知った。母親の実家・櫻井家の仏壇に置かれていた石ころの意味が分かった瞬間だった。飾れるものはそれしかなかったのだ。
 本の中には、わずか16歳の海軍の少年兵たちが地下壕掘りを終えた夕方の帰り道に『故郷の空』を口ずさみながら歩いていくシーンが出てくる。

  夕空はれて 秋風吹き 月影おちて 鈴虫鳴く 
  思えば遠し 故郷の空 ああ わが父母 いかにおわす

 このあたりのくだりは何度も読んだという。
 かなりの話題となった映画「硫黄島からの手紙」だったが、さすがに小学校の同級生の間では、せいぜい「あのニノ(二宮和也)が出てるやつでしょ」くらいのものだった。まさに、植木少年が一人で育んでいった世界だったのだ。
 いつの間にか、曾祖父や硫黄島のことなら、母親や櫻井家の叔父叔母よりも詳しくなっていた。また、祖父母と離れて暮らしている叔父夫婦には子供がいない。何かの折ではあったが、祖父母は「嫌でなければ、この家に(植木さんが)住んでもかまわないし、将来的にお墓も見てくれると嬉しい」と言うほどまでになっていった。
(続きは8月18日掲載予定)取材・文/伊豆野 誠

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